未来圏内

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罪を犯した人間はどう生きる? 映画「友罪」感想

見てきました、「友罪」。なんでこの映画見に行ったかって聞かれると難しいんだけど、まあまず俳優に惹かれた。映画「グラスホッパー」を見てから生田斗真の映画もっと見たいな!と思ってたし、瑛太はもう……単純に顔が好き。んで、ストーリーもすごく気になった。特にあらすじの「俺が自殺したら悲しいと思える?」に惹かれたんですよ!!! いやだって気になるじゃないですか、瑛太が、瑛太演じる鈴木がどんな顔をしてこのセリフを言うのか!!

ということで、あらすじと感想、まずはネタバレなしで記録。

 

あらすじは以下の通り。

雑誌の記者をしていた益田(生田斗真)はあることをきっかけに仕事をやめ、町工場で見習いとして働き始める。益田と同時に見習いとなった鈴木(瑛太)は無口で無表情で、謎めいた人物。2人は同じ寮に入ったが、詮索を嫌う鈴木は益田や寮の先輩・清水(奥野瑛太)、内海(飯田芳)に対しても無愛想で何も語らない。ある夜、益田が「鈴木君は自殺した友達に似てる」と鈴木に打ち明けると、鈴木は「俺が自殺したら悲しいと思える?」と質問される。戸惑いつつも「悲しいに決まってるだろ」と答える益田。その夜から、2人は徐々に心を開き「友人」となっていく。

しかしある日、雑誌記者の元同僚・清美(山本美月)が益田にある事件の話をしたことで、彼は鈴木に疑問を抱くことになる。彼は17年前の事件の「少年A」なのではないか──。

 

映画ではさらに、元AV女優の美代子(夏帆)や、交通事故を起こした息子を持つ山内(佐藤浩市)などの人生が交錯していく構成になっている。この2人がまたつらい。メインの4人(益田、鈴木、美代子、山内)はみな傷を負った人物だ。あらすじでは益田の傷とは何なのかいまいちわからないかもしれないが、映画のラストで明らかになる彼の傷はとても深く、私たちの心にも刺さってくる。

この映画のテーマは「罪」と「生」であると思う。ついこの間見た映画「羊の木」(「羊の木」とは何なのか? 映画「羊の木」感想 - 未来圏内)では「罪を犯したという自覚」について語ったが、それに近い気がする。「友罪」はぼんやりとするけど、「罪を犯した人間はどう生きればいいのか?」と言うべきかもしれない。「友罪」では、みんな、罪の意識がありすぎるほどある(美代子や山内の場合は罪というよりも傷と言うべき?)。傷を負った、罪を犯した人間は生きていてもいいのか? どうやって生きていけばいいのか? 幸せになってもいいのか? じゃあ、どうやって幸せになるのか?

益田は夢に挫折して町工場で働いている。鈴木は子供のような不完全な感情のままどうにか生きている。美代子はAV女優時代の自分を抱え込みながら元彼から逃げ、山内は家族を解散した。どうにか生きようとしている。

でも、それっていいの? このまま生きていていいの? 4人は自分の傷を背負って、隠しつつ、ずっとそう思っているようである。どうにもならない傷を持ったまま生きるって、どんなにつらいか私には想像もつかない。抱えればいいのか、抱えきれない場合はどうやって生きればいいのか。

うーん、これネタバレなしで語るのきついな。どうやっても核心に触れてしまう。

まあ、なんというかすっごい映画だった。瑛太の演技がほんっとにすごい。今まで見てきた役の印象がぶっ飛ぶくらいの衝撃だった。「えっ、これ、誰?」「本当に瑛太?」というくらい。鈴木はたまに仕草に子供っぽさがあって、感情や思考も大人とは言い切れないような幼稚さがある。その不完全さ、不安定さを、こんっっなにちゃんと描き出す瑛太の演技力……すごい。そしてもちろん、その鈴木と友人になり、彼の罪を知ろうとする益田を演じる生田斗真もすっごい。

映画では登場人物が泣くシーンがよくあるのだが、泣き方というのもそれぞれの人物やシーンによって異なっていて本当にすっごい。慟哭、すすり泣き、茫然としたまま、悲しみ、優しさ。とにかくすごいので、ぜひ見てほしい。自分は2回見ましたね……。んで1回目見たときよりも2回目見た後のほうが「友罪」というタイトルがグッとくる。友罪、かあ……。

 

 

 

ということで、ネタバレなしは以上。これからは備忘録的にネタバレ100で書きます。見たくない人は自衛をどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

とにっっかくすっっっっごい。映画は益田と鈴木が試用期間で町工場に働きにくるところから始まるのだが、ここですでに2人の性格が現れている。挨拶を求められて、益田が名乗り「よろしくお願いします」と言うのに対して、鈴木は軽く頭を下げるだけで声を発さない。紹介を受けた社員が「アイツ暗いな」「元気ないな」と口々に解散する中で、2人はその場に並んで立ったまま。その2人を背中から映し、タイトル「友罪」の文字が浮かぶ。

友罪って、何? 有罪ならわかるけど「友」の罪とはなんだ? と視聴者に思わせる始まりである。

 

益田と鈴木は、過去に罪を犯している。鈴木は五芒星事件という悲惨な事件の犯人だ。彼は親しくしていた友達や下校中の女子生徒を殺した。益田は(映画のラストで明らかになるのだけれども)、虐められていた友達を見捨てた。「ねえ、益田くん。益田くんは、僕が死んだほうがいい?」と質問した学に、彼は「勝手にすれば」と答えてしまった。そして彼は、死んでしまった。

山内は、息子が起こした交通事故の罪を背負っている。家族を解散して、本人は罪を背負った気だった。美代子は自分の過ちから逃げていた。彼氏から紹介されたAVの仕事を辞めて、今もまだ男から逃げている。

正しくあろうとしても、人はどこかで罪や過ちを背負うことになる。問題は自分のそれとどう向き合うか。どう背負っていくかである。それがよく表れたシーンが、映画後半、益田と鈴木が公園で飲むシーンだ。

「お前は何をしたんだよ」と益田は以前鈴木に聞いていた。「教えてくれよ」と。それに対して、鈴木は答えるのだ。「益田くんに言わなければならないことがあった」。彼は自分の罪を告白する。自分はとんでもない過ちを犯してしまった。死にたいくらいだった。誰にも理解されなかった。同じように傷を負った人間なら分かってくれると思った。──自分と同じように、夜、悪夢に魘されている益田くんなら。

それに対して、益田は「結局お前は自分のことばかりだな」と吐き捨てる。「残された人の気持ちはどうなる? 遺族の気持ちは? あいつら死んで、もう、戻らない。抱えるしかないだろ」。

益田は、心無い一言で親友を殺してしまった。止められなかった。その思いがずっと彼を苦しめていて、親友の母親に「あなたは学の親友だった」と言われるたびに心がぐちゃぐちゃになってきたのだ。だから、彼は遺族の気持ちを真っ先に考える。遺族の悲しみの声を聞こうというブログを書いている。彼が殺してしまった親友に謝罪するように。彼の「遺族の気持ちは?」という問いかけに心が揺さぶられるのは、彼が親友を死なせてしまってからずっと考えてきたことだからなのだろう。

一方、問いかけられた鈴木は、どこか遠くを見ながら、「おかしいよね」と言った。

「とんでもない罪を犯した。自分なんか死んだ方がいいと思ってる。でも、おかしいよね。生きたいんだ。ほんとは誰よりも生きたいと思ってる」

鈴木には、罪の自覚があるのだ。自分が犯した殺人がどれほど重い罪であるのか、たぶん彼は自分の破壊衝動についても、自覚があって、抑えようという気持ちがある。そしてそれらと同じくらい、生きたいと思っている。

自分が犯した罪、背負った傷、背負わされるスティグマ。彼らは抱えきれないほど多くのものを、それでも抱えなければならない。益田が言う通り、「抱えるしかない」からだ。

 

作中で鈴木は「性の発達が未分化」だと描写されている。だけど、性だけじゃなくて、彼はどこか感情すべてが未発達なようである。彼がする疑問符があやふやな質問や、舌ったらずな話し方、笑い方、表情、すべてが幼い子供のようなのだ。そこがまた、逆説的に、彼の一言ひとことに深い感情が込められているのを感じてつらい。「俺が自殺しても益田くんは悲しんでくれる?」と聞いた時、益田が肯定するなんて彼は思っていなかったに違いない。友達じゃないから。でも益田は戸惑いながらも「悲しいよ」と答えた。「嘘だ、」と言った鈴木の声は震えていた。自分を思ってくれる人がいること。友達だと言ってくれる人がいること。理解してもらえること。鈴木は今まで、対等なそれらを経験したことがなかったんだと思う。彼はそれから、「友達」という言葉を使うようになる。友達だから。大丈夫、友達だから。そこに切実な何かを感じてしまうのって、「羊の木」の宮腰が言う「それって友達として言ってる?」に通じるよね。宮腰は「友達」にこだわっているように見えて、結局月末を突き放してしまう(最後に「友達」という言葉を使ったのは月末だったような。「友達じゃないの?」って。)。でも、鈴木は益田を友達だとラストまで思っていた。益田も鈴木を友達だと思っていた。それだけでもう、ちょっと救われた気持ちになってしまう。

 

これは余談になるけども、益田の抱えていたものを知ると、映画序盤の「鈴木のガサ入れ」のシーンがとてもつらい。益田は自分がいじめを受けるのが怖くて、学へのいじめに加担してしまった過去がある。そこを踏まえると、清水がガサ入れを宣言したときの益田の気持ちって! 鈴木の部屋に行こうとする清水。立ち止まったままでいた鈴木は、彼に「お前、わかってるよな」と言われる。

「鈴木は嫌われ者なんだよ。アイツを庇うなら、お前も同類だぞ」

彼は学くんを思い出したに違いない。どうする? あのときの選択をもう一度するのと同じことだ。加担しないと、自分がいじめられる。加担しないと、自分が肩身の狭い思いをする。どうする? どっちを選ぶ。

益田は結局鈴木の部屋を探索することに決めるのだが、彼はやはりそれを後悔して、ブログに懺悔しようとする。「学。僕はまだ最低だ。君と出会ったころから、最低だった。」

思い返すとしんどいわ、なにこのシーン。あーーーしんど。

 

最後の最後になるけど、一つだけ気になったことがある。映画のラストで益田は自分の罪と向き合うために、ずっと行くことができなかった学の自殺現場に行く。そこで彼は初めて自分の傷を見つめ直し、本当の意味で罪と向き合う。一方時を同じくして、行方不明になった鈴木も自分の殺人現場に行く。彼らは自分の罪をどうにか直視し、喘ぐように泣く。

そのあと、だ。

彼らは2人とも、弾かれたように顔を上げ、振り返る。彼らの視線の先に何があるのか、視聴者は想像するしかない。罪を見つめ直した彼らに何が見えたのか。何が現れたのか。あるいは、誰が訪れたのか。私たちは想像するしかない。

なにが、見えたんだろう。

 

 

うーん書きたいこと書いたのでここらへんでやめよ。もう5回くらい見たい。というか小説読みたい。暇になったら小説読もう……。