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「羊の木」とは何なのか? 映画「羊の木」感想

映画「羊の木」を見てきた。

なんかもううまく感想言えないけどすっげーーーーー錦戸亮錦戸亮の顔が好きな私としてはほんと錦戸亮。すごい。そして松田龍平が好きな私としては本当に松田龍平(意味不明)。

以下ネタバレなし感想。

 

ここで突然のあらすじ。

市役所職員の月末(錦戸亮)はある日突然、6人の男女の受け入れという仕事を与えられる。それぞれを迎え、車で住居まで送ったり移住の手伝いをしていると、彼は一人一人の違和感に気づく。6人は全員、何か、変わった人たちなのだ。そして月末は知ってしまう。6人は全員「元殺人犯」であり、その受け入れは「町の過疎化」と「受刑者の仮釈放」という2つの問題をクリアするための国家プロジェクトであるということを。

こうして6人の元殺人犯が来た町、魚深。この6人というのがまたすごく怪しい。理髪店で仕事を始めた福元(水澤紳吾)は挙動不審だし、清掃業務をしている栗本(市川実日子)は、無口で無表情。月末の父がいる介護施設で働く太田(優香)はなんかえろい。釣り船屋をする杉山(北村一輝)は何だか危ない雰囲気が出ているし、凶悪そうな表情である(失礼)。クリーニング店に受け入れられた大野(田中泯)は顔に傷があって、見た目からして怖い。宮腰(松田龍平)は初っ端から罪を告白してくる。すごい。

この6人を受け入れた魚深は、月末やその同級生・文(木村文乃)を巻き込んで、何かが変化していく--。

 

この話でキーになっているのはもちろん「羊の木」である。羊の木とは何ものか? 映画の公式サイトにもあるのだが、羊の木を持っているのは清掃員の栗本だ。彼女は仕事中に羊の木が描かれた缶の蓋を拾う。そして家に飾る。

5匹の羊が成る木の絵だ。そして、木には2枚の枯葉もついている。

絵を見ると、ちょっと不気味。そもそも羊が成る木っていうのがなんだか怖い。アンバランスだし、植物から動物が成るっていうのは……すごく、変。

この羊の木の絵は、映画の中で何度か出てくる。しかし、誰も「これはこういう絵だ」とは言わないし、そもそも蓋を拾った栗本以外はこの絵と関わりがない。しかし、この絵に関して映画の冒頭で東タタール旅行記の引用がある。

その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる

羊にして植物

その血 蜜のように甘く

その肉 魚のように柔らかく

狼のみ それを貪る

                                        「東タタール旅行記」より

 タタールって韃靼……?だからモンゴル?あたり??? あいにく私はこのような記述に弱いので意味がさっぱりわからない。さぱらん。

羊はたいてい食われる側の生き物だ。第一次囲い込みでトマス=モアが「羊が人を食う」と言ったのは比喩であって本当に羊が人をむしゃむしゃしてるわけではないし、狼少年でも羊は狼に食われてしまう弱いもの。

そんな羊が、木に成る。木や植物はよく、新しい命として扱われるものだ。木に羊。羊の木。新しい命と弱いもの。「羊の木」は何を意味しているのか。多分見た人によって考えが違うんだろうなあと思う。私は私なりに「羊の木」に意味をつけたけど、みんな一緒とは限らないよね。映画も本もそういうもんだし。

ウィキで調べたらバロメッツ?とか出てきて尚更謎が深まった。「羊の木」がバロメッツの伝承に由来するならわっかんねー。

 

というわけで、見た人の中にその人なりの「羊の木」が生まれるという結論で、ブログタイトルを回収。

全体的に映画としてすっごくよかった。分かりやすい結論があるよりも想像の余地がある終わりの方が映画としていい気がする。し、6人の元殺人犯がいる町はすごくドキドキした。いつ事件が起こるかわからない、誰かが何かを企んでいるかもしれない、と思いながら錦戸亮を見る。最後20分とか本当に心臓がばくばくしてきて、めちゃくちゃ引き込まれてた。俳優の錦戸亮だけじゃなくてベースを弾く錦戸亮も、ギターを弾く錦戸亮も見られるのでファンの人はきっと楽しいんだろうな……。

締まらないけどネタバレのない感想はここまで。

以下頭を使って考えたことをネタバレ度合い100で書く。自分のために。

 

 

 

 

 

 

 

「のろろ様」とは何なのか?

 

魚深には守り神的な何かがいる。「のろろ様」である。「のろろ様」のことは見てはいけないらしい。月末は「子供のころ、見るなって言われてませんでした?」と言っていたし、私はそれを聞いて三浦しをんの白蛇島を思い出して背筋凍った。私は善か悪か判別のつかない、得体の知れない世を超越したモノ、というのが苦手だ。なぜって怖いから。「のろろ様」はそういうものだと思う。月末の話す伝説では、「のろろ様」はもともと化け物のようなもので、町の人に倒されて守り神になったということになっている。そして、「のろろ様」に捧げるために昔は岬から2人の生贄を落としていた、とも言っていた。2人のうち1人は必ず浮かんできて生き残るが、1人は沈んでしまうらしい。沈んだ1人は、死体も上がらないのだと言う。怖。

この「のろろ様」の伝説を聞く前に、宮腰は子供達が「のろろのろろ……」と言って遊んでいるところを目撃する。「のろろって何?」と宮腰が聞くと、子供たちは口々に「化け物!」「神様!」「ちがうよ化け物だよ」「ちがうよ神様だよ」と騒ぐ。宮腰は興味深そうに話を聞き、騒ぐ子供を「のろろー!!」と言って追いかけはじめる。子供はきゃあきゃあ言って遊ぶ。ここだけ見ればほんと宮腰さん普通の人だな。人殺したとは思えねーわ。

神様と言われているものが実際は善悪どっちの面も持っている、というのはよくある話だ。鎮めるために祀った神様も歴史上にいっぱいいる。鎮めるために祀るって、祀られて嬉しいもんなんかな。わからんけど。

「のろろ様」は化け物か神様か。1人は沈んで1人は生き残る。奇妙な祭り。怖い。

宮腰はよく「それって友達として言ってる?」と言った。私はこの台詞がすごく好きで、この言葉が宮腰のすべてなんだろうなと思った。宮腰に友達がいたかどうかは分からないけど、設定から考えるに彼は何も思わずに人を殺してきて、特に心を動かされることもなかったんだろう。「友達」という言葉に何か子供みたいな可愛さ、切実さを感じてしまうのは私だけ?

結果、宮腰や杉山はああなってしまったわけだけど、ここで働いたのは「のろろ様」の力なんじゃないかなと思ってしまう。祭りでも「のろろ様」の怒り(?)を受けたのはこの2人だった。「のろろ様」が完全なる善だとは思わないけど、守り神でもあるらしいから、そうなのかなあと……。私の勝手な想像だけど。

宮腰と杉山になかったのは、罪の自覚だと思う。ほかの4人にはあった。太田は元殺人犯の自分が恋愛をすることに対して悩んでいた。人を殺したら恋愛をしてはいけないのか? ダメだと思っても深く好きになってしまうときは? 前に進みたいときは? 大野は若かった自分が馬鹿であったと気付いていた。だから組を抜けて魚深に移住した。栗本は、酒に酔った福元を見て「怖い」と言った。一升瓶でDVの夫を殴って殺した「自分が怖い」と。福元は刑務所帰りの自分に居場所がないことを分かっていた。そしてもう1人、福元が働く理髪店の店主も。

罪の自覚がある4人(+1人)は魚深で新しい道を歩き始めている。新しい人生。栗本は、家の庭に5つのお墓を作った。でも、死ぬことは「さよならじゃない」。「いつか木になる」と栗本は言っている。これこそが、「羊の木」のすべてだと思う。

5つのお墓は死ではなく再生の象徴だ。そこから芽が出て、いつか木になる。木になれば、そこから羊が生まれるのかもしれない。羊は狼に食われる側だ。だけど、「食う側」だった元殺人犯が、殺人犯としての自分を捨てて魚深の住民として「食われる側」に戻れるのなら、それはマイナスではなくプラスの出来事である。プラスどころか、光にも思える。栗本の作ったお墓からは芽が出て、大野は笑うことができる。福元には居場所があるし、太田は恋を大切にできる。それは紛れもなく、元殺人犯たちの再生だ。多分、きっと、そうやって生きる月末や文や元殺人犯たちを守り神としての「のろろ様」が見守ってくれるんだろう。

 

 

と、いい話感を出して感想を終わる。

つーか月末の「友達じゃないの?」で泣きかけた。月末は人を信じようという気持ちが見えて良い。「信じる」「疑う」というテーマは「怒り」もそうだったけど、こんなにグッとくる映画になるんだなあ。もちろん映画がすごいのは監督や俳優のおかげなんだけど、テーマも深くて良いよね。