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未来圏内

日々のくだらないことや小説

"自分"は何で決まるのか? - 「君はレフティ」

キーワードは「君はレフティ」「7.6」。

「君はレフティ」という本を読んだ。著者は額賀澪さん。初めましての作家さんだ……。

以下やんわりとしたあらすじと感想。

 

小説の始まりは主人公・古谷野真樹が夏休み中の事故によって記憶喪失になったところからである。高校二年生の古谷野は記憶のないまま学校に復帰することになるが、かつての友達は今や初対面の人ばかりで、教室では孤独感を感じ、友達も優しく迎えてくれるが違和感はぬぐえない。そんな中、ある日体育館の壁に「7.6」という落書きが描かれる。しかし落書きはそれだけには留まらず、連続するいたずらへと発展。主人公はその落書きが「自分に対してのメッセージ」なのだと考え、記憶を失ってからもう一度友達となった生駒桂佑や春日まどかと落書きや自分の記憶の真実を探し始めるが……。

 

この本のキーワードは先ほど書いた通り「君はレフティ」というこのタイトルと、序盤から登場する謎の数字「7.6」である。正直後者についてはこの書き方でいいのか迷うところはあるが、とにかくそう。

とっても勘が良いか、この本のテーマの一つ(だと私は思っている)のある事柄に対して興味がある、なんて人でなければ、この本のラストにはこの情報からは辿り着けないと思う。私は後者に当てはまる人であるので、結構話の道筋が見えてしまったけれど。でも、決してこの本はそのテーマ一つで成り立っているわけではない。

 

すごく端的に言ってしまえば、この話から考えさせられることは、「自分」であるとはどういうことなのか、ということである。主人公の古谷野は事故に遭う以前の記憶をすべて失ってしまった。友達はもちろん、家族とも、どんな会話をしたのか、どんな日常を過ごしたのかさえ憶えていない。自分がクラスの中でも中心にいたことも、自分が体育祭で活躍したことも、友達に頼まれて、生徒制作の映画のエキストラになったことも、何も憶えていない。そんなことができる能力があるというのも知らない。

しかし、古谷野の友達の中には、記憶を失った彼に「前と変わらない」と言う人もいる。彼――古谷野はそれまでの自分を知らずに、友達の言う「古谷野真樹」と現在の自分にギャップさえ感じているというのに、である。

じゃあ、自分って何なの? 何が自分を自分たらしめているの?

記憶は自分を形作る大きな成分だけれども、それがどこまで自己に影響を与えているのかっていうのは分からない。話はそれるが記憶を失くしても仕草や考えが変わらないこともあるだろうし、逆に記憶があっても移植などで食べ物の好みが変わった、というような話もよく聞く。結局、自分が何によって決められているかはわからないものだ。

 

そういうわけで、色々考えた本だった。拙いながらも考えたし書いたのだが、こんな私が考えるようなことのみがこの本の魅力ではない。この本は!!!もっと!!!!魅力があるんです!!!!!!!!!

なんといっても文章が読みやすい。かと言って簡潔すぎるわけでもなくて、古谷野の気持ちが痛いほど伝わってくるのがすごい。みんなが褒める記憶を失う前の古谷野と、記憶を失った古谷野が違うことは彼が一番感じているのだ。どれだけの人が「前と同じ古谷野」と思おうと、彼自身が痛切に感じている。文章だけじゃなくてストーリーも良い。

ううん伝わらないよなーーーこの良さは!!!!とにかく読んでほしい!!!!

 

 

 

以下盛大なネタバレがありますので気を付けて。

これだけは言っておくけれど、「君はレフティ」を読むつもりの人は以下は絶ッッッッッッッッッッッッッ対に読まないでほしい。この本はネタバレを何も知らずに読んでほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ含みます。

みんなが幸せになって、誰も「幸福な結末」にはならない、と私が呼ぶエンディングでした。でも好きな終わり方。

これで春日とくっついても、生駒とくっついても、(あるいは、もしかしたら、前園と!)くっついても、一人は幸せになれるけど、残りの二人はどうしたって「あきらめる」という行為をしなければならない。だからこれが一番「みんなが幸せ」なエンディングであると思う。しっかし古谷野は素敵な子だったのね。

何といっても、すべては生駒と春日の性格の良さである。生駒も春日も素晴らしい子なの!!! 私は断トツ生駒派。

「LGBTの人々の割合と左利きの人々の割合は同じくらい」という話は結構有名(だと私は思っていたけれどもしかしてそうでもない?)だから、私はどこかの書店で「君はレフティ」というタイトルと「7.6」という数字が書かれたポップを見た瞬間に「なるほど、素敵なタイトルだ」と思ったわけです。

生駒に対しての夏休み前の古谷野の発言が、すべてあたたかくて、偽善でもなんでもない、ただ「古谷野」の言葉が、すごくきれいだった。なんて素敵な言葉なのだろう。でも、記憶を失ったあとの古谷野も、きっと本質はなんら変わっていないのだと私も思う。生駒の家を出たのに戻って謝りに行くところとか、「ごめん」や「大丈夫だよ」という言葉を生駒が望んでいないのだと気付けるところ。こんなに切実で苦しい小説があったか!?!? と思ってしまった。とにかくいい。私にはこの良さは書けない。

 

一番最初の読書記録がこれでよかったなあ。ということで、これからも本を読みたい。