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未来圏内

日々のくだらないことや小説

吾輩は勝ち組である。

最近しあわせだと思うことが増えた。良いことだ。だから、自分がしあわせだと思うことを書こうと思う。ついこの間、幸せのメカニズムというスピーチを見た。幸せはポジティブな脳から生まれるらしい。そういうわけで、どうでもいい話だけど、端的に言えばしあわせだという自慢をするので聞いてください。これを読み返しているのかもしれない未来の私はしあわせを作る脳を思い出せ。

 

自分が勝ち組だなんて思ったことがなかったし、そもそも勝ち組ってなんだ? と思っていたのだけれど、最近、ああ、私ってしあわせなひとなんだなあ、と思う。そう思えることは、誰に勝ったわけでもないし今まで負けていたわけでもないとは思うけど、勝っている。何かに勝っている。昔の自分とかそういうものに、多分勝っている。しあわせだと思えることはしあわせだ。

 

客観的に見たら、私は普通の学生である。学校の中では成績が特別良いわけではなくて、文才や絵心があるわけでも、何かとんでもない才能、超能力を持っているわけでもない高校生である。これからきっと今までの比ではない挫折とか苦しみとかがあるし、そのときには自分がかつてしあわせであったことも忘れて泣いているかもしれない。

でも、今、高校三年生の私はしあわせだ。

学校の中では成績が良いわけではないけど標準より少しは勉強ができるつもりだし、文才も絵心もないけど自分が好きだと思えることがあって、才能も超能力もないけどそんなに困ってない。人生で大切なのは、喜びがたくさんあることじゃなくて、苦しみが多くないことを喜びにできることだと思う。たかだか十数年生きただけだけど。

 

小学生高学年のころ、クラスメイトの女の子に土下座した。中学生のころ、数ヶ月か、いや、本当は何か月かよく憶えていないけれど、学校に行かなかった。

このころは、本当に生きていることが大変だった。眠る前に自分の部屋の天井を見て、いつの間にか泣いていたり、毎日ぼうっとしていたり、別につらかったときの自慢をしているわけではなくて、そういうころがあったのは事実だ。

誰かに比べればそんなに苦しくはない、子供のよくある話だと思う。でもそのときの私には「それ」がとてつもなく大きい力で、信じられないくらい真っ黒でとげとげしたものに見えていた。そもそもつらいことを誰かの比較するほうが間違いであるので、そんなことを言っても仕方ないかもしれないが。

 

自分にとってのつらいことは、絶対に経験しておくべきだ。でも、乗り越えられることができないつらいことは経験するべきではない。

神様は人々に乗り越えられる試練しか与えないと言う。神様がいるかどうかは置いておくが、そういう神様的な、私たちの意識の向こう側に何かが存在しているのだとすれば、そうなのかもしれない。でもそれは、「悪意」が存在しないところでの話である。

ただの事故と、誰かの悪意が存在する事故つまり事件は違う。階段から落ちて脚の骨を折ったとして、それが単なるその人自身の不注意で落ちたのならそれは乗り越えられる試練であろう。けれどそれが、誰かの悪意によって階段から落とされたのなら話は別だ。悪意は継続する。誰かの悪意がある限り、その人は階段から落とされ続けるのである。そんな悪意を乗り越えろというのは酷い話だ。たまにはそういう悪意を乗り越えられることもあるけれど、それは運が良かったとしか言いようがない。学校に復帰できた私は運がよかった。

だから、つまり私の言いたいことは、すべてを乗り越えなければならないわけではないということだ。酷い悪意は乗り越えられない。むしろ乗り越えようとしてはいけない。逃げることは悪いことではなくて、誰もがする必要のあることだ。悪意から逃げることも必要である。

 

もちろんすべてを他人のせいにするわけにもいかないけれど、悪いのはたいてい害意を生む本人である。だから自分も害意を生んではいけない。嫉妬や優越感・劣等感は多少なりとも感じるものだけれど、それを土台にして人を傷つけようとしてはいけない。

 

私には嫌いな私がいっぱいいるけれど、しあわせだと思える私は、結構しあわせだと思う。