未来圏内

日々のくだらないことや小説

封印

小説です。

 

封印

 居酒屋の中はクーラーによって冷やされていた。それなりに混雑した店内は人口密度が高い上ほとんどが酔っぱらっているはずなのに全く暑さを感じさせない。今日の飲み相手は中学時代の同級生で長く会っていなかったが、明日は平日で互いに仕事がある。
「俺、生飲むけど」
「同じでいいよ。あと何か、適当に」
 注文を彼に任せ、僕はトイレのために席を立つ。外の暑さと店内の涼しさのギャップで頭痛がする。これだから夏は、と悪態をつくが、もちろん誰も冷房の温度をあげてはくれない。
 席に戻ると、彼は既に注文を終えていた。最近お前どうなの? ビールを片手にお互いの近況報告をする。この間、地元より少し都会のこの町で偶然会っただけだから、知らない話がたくさんあった。仕事の話をした。給料が安い、上司が嫌な奴だ、同僚が協力してくれない。お酒が入ってからどこにでもあるような愚痴が増える。だから、油断していた。彼の口からまさか兄の話が出るなんて、露ほども思っていなかったのだ。
「お前、最近お兄さんは元気か」
 先程まで饒舌だったのに、口をつぐんでしまう。声が出ない。冷や汗が出る。ビールについた水滴が重力に従って下へ流れるように背中の嫌な汗がそろりと流れた気がした。これだから。これだから夏は。舌打ちをする代わりに唇を噛む。
 双子の兄は、よくできたひとだった。一卵性のくせに、僕と同じ顔のくせに、兄はとてもうつくしかった。声も落ち着いて綺麗だったし、きめ細やかな肌は香水をつけていないはずなのに、常に甘い香りがして、そして、料理も上手かった。彼は五感すべてで人を惹きつける。しかも彼は性格においても欠点がなかった。だから僕は兄がとても自慢で、すごく誇らしくて、ひどく嫌いだった。
 兄は、僕が兄を嫌いだと思っていることを知らなかったと思う。彼はいつでも優しかったし、どれだけ突き放しても笑って頭を撫でた。そうやって、どれだけ冷たくしても寄ってくるところも嫌いなのだ。自分が兄を疎ましく思う気持ちは至極真っ当なことなはずなのに、わがままを言っている気分になる。これだけ良いひとを嫌うだなんて、自分がわがままなのではないかと思ってしまう。
「兄さんとは、長いあいだ会ってないんだ」
「そうか」
 うまく笑えていたかどうか、分からない。目の前の彼が、ひきつったかもしれない口元に気付いたかどうかも分からない。ただ、それから兄の話は出なかった。

 兄が死んだのは、九年前の夏だ。僕の一人称が僕から俺に変わる前に、兄の呼び名が兄さんから兄貴に変わる前に、兄は家の庭先で死んだ。僕の一人称は一生、僕のままだ。
 兄を最初に見つけたのは僕だった。よく、憶えている。思い出すという行為もいらないほど、兄の最期は日常の至るところに溶けている。夏の、特に暑い日だ。ジリジリと音がするような気がするほど熱い地面を蹴って、僕は帰った。学校の部活の帰りだ。兄はその日、休みで家にいるはずなのに、玄関を開けても兄の声が聞こえなかった。声だけじゃない、兄の部屋が二階だとは言え、その日の家は静かすぎた。僕は慌ててリビングまで走っていき、室内に兄がいないことを確認したはずだ。見渡して窓の外に、光に照らされた兄の背中を見る。窓を開ける。靴下のまま、僕は庭に出る。
 庭に咲いた花の真ん中で兄が丸まっていた。母が植えた、兄と僕が育てた花だ。それは兄を送る献花のようでもあり、祝福するようでもある。その姿が太陽の光に照らされているのは必然なのだろうとも思った。
兄は、とても綺麗だった。もし庭でなくベッドで同じように死んでいたなら、僕は心臓が止まっていることにすら気付かなかっただろう。それくらい、最期までうつくしかった。
 それから僕がそれをどうしたのか、あまり憶えていない。母と救急車を電話で呼んだことは確かだが、気付けば僕は泣きながら兄を揺さぶっていた。
 兄さん。兄さん、起きて。もう生き返らないと冷静に分かっていた。
 焦って帰ってきた両親が、兄の姿を見て泣き出す。その瞬間に、僕は兄が死んだのだということを突然思い知った。兄はいなくなったのだと、そのことを、初めて知った。
 兄は手紙を三通残していて、一つは家族へ、一つは友人や学校へ、そして一つは僕へ宛てられたものだった。その手紙を、僕はまだ一度も読んでいない。

 中学時代の友人と居酒屋の前で別れてすぐ、携帯が鳴った。二十三時三分。辺りはまだ人通りが多く、会社員らしきスーツの人も見受けられる。夜の暗さの中に居酒屋や広告の看板が光として浮かび上がっている。僕のスマートフォンの光なんて、弱々しい。
「遅い」
 電話をとると、開口一番それだった。
「ごめん、酔ってて」
 本当はあまり酔っていない。
「はあ、酒かよ。この時期のお前の酒とか心配にしかならねえよ」
「別に、兄さんのことじゃない。中学のときの同級生と飲んでただけ」
「まあいいけど」
 高校時代の友人だ。兄が死んで、僕が呆然としながら毎日を過ごしていた時期を知っている。親友と呼ばれる類だ。高校を卒業してからも気づかって、毎年この時期になると体調を崩す僕に電話してくる。そして、地元からわざわざこちらまでやってくるのだ。
「明後日、そっち行くから」
「え?」
 唐突すぎる。
「土日休みだろ。土曜の夜、飲もうぜ」
 僕は返事ができない。返答も待たずに切れた電話をポケットに押し込み、帰ろう、と思った。

 小さいころから、テストの点数は上回れなかった。兄が走り幅跳びで跳べた高さを跳ぶことができなかった。悔しくて泣いているところを慰めるのは兄だった。兄が嫌いだった。

「それはさ、お前、自分のことがよく分かってないんだ」
 親友は何もかも知ったような顔で言って、酒をあおる。箸で僕を指して「馬鹿だなあ」と穏やかに笑う。その口調が兄にそっくりで、少しだけ泣きそうになる。
「お兄さんのこと、なんで嫌いなの」
「兄さんは、完璧だったから」
 超えられないことも、超えようとして色々なことに挑戦する僕を励ますことも、嫌だった。うつくしい兄を超えることはできない。それだけは、よく分かっていた。双子なのに同じじゃない。同じになれない。いつだって僕は兄より下。
「お兄さんを超えたかった?」
「え?」
 おしぼりを弄んでいたのに、まともに顔を見てしまった。超えたかった? 疑問に思う。僕は兄を超えたかった?
 そうだとしても、もう叶わないことだ。
 親友は目を細めた。彼の目は友達を見る目というより、息子を見る慈愛に満ちた母の目だ。
「お前、お兄さんのこと思い出したくないんだろ」
「そりゃ、嫌いだし」
「そうじゃなくてさ。お兄さんが亡くなったあと、お前から一度もお兄さんの話聞いてない」
「話してるよ、今まさに」
「……お前の話には思い出がないんだよ。お兄さんがどんな人だったかばっかりで、お兄さんの目にお前が映ったことがない。それって思い出じゃないだろ。たとえばほら、昔言ってただろ、中学のころお兄さんと水族館に行ったとか、公園で一日かけて砂の城を作ったとか」
 そんなことを彼に言った憶えがなかった。いや、兄とそんなことをした憶えさえない。目の前の男を見つめるが、冗談や嘘を言っているようには見えなかった。僕が忘れているらしい。
不思議に思っている僕にひとしきり呆れてから、ビールを片手に親友はなんでもないことのように提案してきた。
「実家に、帰ってみたら?」
「実家に?」
「お兄さんの部屋、残ってるんだろ」
 会話が噛みあっている気がしない。ああ、ともうん、ともつかないうめき声で返事をする。確かに、実家の兄さんの部屋は九年前から手つかずのままだ。兄が生きていたころ何度も入った部屋は、兄が死んでから誰も入らなくなった。
「あるのは机とベッドだけだけど」
 何だか居心地が悪く感じられ、ビールを口に流し込む。僕には少しほろ苦い。アルコールと苦さで喉が焼けそうだと思う。
「いいんだよ。お兄さんの思い出の封印を解くんだよ。きっかけなんだよ、そういうのは」
 封印って、何だよ。悪態をついたつもりだったのに、僕は泣きそうになっている。親友が僕の髪をくしゃくしゃにしながら頭を撫で、それがやっぱり兄に似ていた。

 兄の部屋は蒸し暑く、もう何年も部屋の主がいないことが分かるホコリの量だった。窓から入る光はカーテンによって遮られ、昼だというのに薄暗い。虫一匹の気配さえしない。本当に時が止まっているのではないかと錯覚するほど静かだ。兄が死んだことで、この部屋自体も死んでしまったのかもしれない。
連絡も入れずに実家に帰ったのに、母親は「おかえり」などと呑気に言った。僕が、親友の言うところの封印を解きに来たと知っているようだった。
「兄さん、入るよ」
 いつもしていたように声をかけ、足を踏み入れる。裸足だった足の裏にホコリがつく。僕は迷わず部屋の手前に置かれていた勉強机へ向かった。
 木製の机の上は床と同じ状況で、掃除がされていないことが分かる。勝手に机に触れることを心の中で謝り、引きだしを開ける。彼が使っていた文房具の中に紛れて二つの封筒があった。真っ白いそれに右上がりの字でそれぞれ、家族へ、友達へと大きく書かれている。急に、肩にかけた鞄が重く感じられた。
 お兄さんの思い出の封印を、解くんだよ。
 親友の声がする。そうだ、僕はこれを読みに来た。これと、僕に宛てられた手紙を。
 封筒を手に取り、引きだしを閉める。部屋の奥のベッドに、最期に見た兄と同じ格好で寝転んだ。兄はどうして、あの格好で死んだのだろう。これから死ぬくせに、どうしてこれから生まれる胎児のように丸まって死んだのだろう。
 家族へと書かれた封筒を開き、便箋を出す。紙いっぱいに丁寧な兄の字が並んでいた。深呼吸をして、読み始める。
 兄の遺書を読むのは、思ったよりも苦しくなかった。兄の文はあっけらかんとした口調であったし、ほとんどが両親に向けられた言葉だったからだ。途中、僕の体調を気遣う話もあったが、それだけだった。死んでまで僕の体調を心配するなんて、馬鹿らしい。兄の嫌いなところでもあり、好きなところでもある。僕は丸まったまま、鞄から自分宛ての手紙を出した。一人暮らしをしている部屋の机の奥に閉まっていた。これは、兄が、家族とは別に僕に宛てた手紙だ。両親には伝えなかった言葉だ。そう思うと手が震える。さっきより緊張する。一度も開けられていない封筒を開けるのにてこずったが、やっとのことで便箋を取り出し、開き――息が止まった。
 そこには、ただ一行しか書かれていなかった。自殺した理由なんかじゃない。兄がわざわざ僕だけに宛てた手紙。両親には伝えなかった言葉だ。僕だけに伝えたかった言葉だ。
 ああ、と息を吐き出す。涙がぼろぼろと落ち、僕は危うく手紙を濡らしそうになる。ああ。もう一度息を吐き出して、僕は何度もその文を読み返す。
 ――お前が俺を想うくらい、お前のこと、好きだよ。今も。
 僕は、兄が嫌いだった。とても、兄が嫌いだった。双子なのに僕らは正反対で、兄はいつも自分の前を歩いていた。完璧な兄と凡人の弟。真っすぐな彼とひねくれた僕。対等ではないと思っていた。
対等に、なりかった。
 だから嫌いだった。兄も、それ以上に、兄と対等であれない自分も。だけど、兄は、ずっと。ずっと、僕らはお互いを愛し合っていたのかもしれない。家族とか、双子とか、そういうのを越えて、だ。
気付いたら僕は夢を見ていた。兄の夢だ。兄と僕が、兄の死んだ庭先に座って花をいじっている。晴天だ。日差しは強く、兄の白い肌はすぐに赤くなってしまいそうである。
「なあ」
「何?」
 隣に座っていた兄が立ち上がって、僕の向かいに立った。兄の影のおかげで、僕は日差しから逃れる。顔をあげて兄の次の言葉を待つが、兄の表情は逆光で読めない。仕方なく、僕は花を見る。
「俺が死ぬときはさ」
「死ぬ?」
 突拍子もない話だ、と思った。僕は現実で兄が死んでいることを知っているのに、だ。
「そう、死ぬ。魂が肉体から離れるときの話」
「兄さんは魂の存在、信じてるんだね」
 僕はどうでもいいことを言う。母の育てている花に水をやる。花びらに水をかけないように、丁寧に茎の根元に水をやる。
「そんなことはどうでもいいんだ」
 兄も花に肥料を与える。
「俺が死ぬときは、多分、お前のせいだよ」
「何それ」
 少なからずショックを受けた僕は、手元から視線を外した。また兄を見上げるが、やはり逆光で、兄がどんな顔をしているのかは分からない。
「だからさ、俺のこと忘れないでくれよ」
「なに、それ」
「お前のせいで死ぬんだから、俺のことを忘れるなよって話」
「……忘れないよ」
「絶対な」
「絶対なんてないでしょ」
「絶対だよ。俺の半身だろ?」
 半身ではないと思うのだが、僕は素直に頷いた。半身という言葉が意外にも心地よかったからだ。
「憶えててくれるならいいや。俺、死んだらさっさと成仏してこの世から解放されよう」
 何だそれ、と思う。兄が僕に近づいて、ぽんぽんと頭を撫でる。「お前は本当に」と兄が口を開いて――目が覚めた。僕は兄のベッドで、赤子のように眠っていた。
 夢が、本当にあった過去の記憶なのか、僕の妄想なのかはっきりしなかった。夢の中の兄は僕のせいで死ぬのだと言ったが、それは僕に憶えていてもらうための口実に思える。いや、僕の望みが入った妄想なのかもしれない。
結局、兄の死んだ理由がなんだったのか、兄の封印が解けたのか、僕には何もわからない。兄が僕を愛してくれていたのかも、今となっては想像である。ただ、僕は少し、本当に少しだけ、嬉しいと思う。
 夢の中で兄が世話をしていた花に、水をやろうと小さくそう思った。逆光で見えないはずなのに、兄が不器用に笑うのが見える。

 

 

 

唐突に小説でした。ろくに推敲もしてないけどどうしてもあげたかった。以前書いた話をさらっとだけ書き直したものです。でも、自分の好きな話です。