未来圏内

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無批判と悪意のあるもの - 「沈黙」

現代文の教科書に、村上春樹の短編、「沈黙」という作品が載っている。授業で読んだわけではないのだけれど、訳あってこの話を読んだ。

そもそも自分は村上春樹の作品が好きでもないし嫌いでもない。高校生でも上の下の中くらいの成績の良さ(これは高慢でも、逆に謙虚でもない。多分本当にそれくらいだ)の自分では村上春樹の作品を噛み砕くことができた試しがないが、ときどき読む、そのくらい。ちなみに私が読んだ作品は「1Q84」「海辺のカフカ」「色彩を持たない~」とか、それくらいだ。

 

ただ、この話はとても深く理解できるし、きっと、自分と同じ考え方の人は同じようにこの話を理解できると思う。

あらすじはこうだ。

「僕」と大沢さんは空港にいる。待合時間に「僕」は、穏やかな顔とは反対に中学からボクシングを習っているという大沢さんに「喧嘩をして誰かを殴ったことはありますか」と聞いた。大沢さんはそのことについて話さないかのように思われたが、少しして「一度だけ」という言葉が返ってきた。「できることならこんな話はさっぱりと忘れてしまいたいと思っているんです」と言いながら、大沢さんは、人生で一度殴った人物・青木のことを話し始める。

作中で大沢さんが言う通り、ボクシングを習っている人間が生身の人間をグラブをつけずに日常で殴ることはとても危険なことだ。それは分かっていたけれど、大沢さんは怒りに任せて青木を殴ってしまう。ここでいちばん好きな文を紹介したい。

 

「僕は相手を殴ったことを悔やんではいましたが、青木に対して悪いことをしたとは露ほども思いませんでした。(中略)本当にこんな奴は誰かに踏みつぶされて当然なんです。でも僕は彼を殴るべきではなかった、それは明らかなことでした。」

 

大沢さんの言うことが分かるだろうか。彼は相手を殴ることが何の解決にもならないことを知った。私も知っている。怒りに身を任せたからって、そういう、青木のような人間が反省するわけではなく、自分の心が晴れるわけでもないことを。

 

中学のころ、私も「沈黙」に耐えていたことがある。クラスメイトからは「佐倉さん」と名字+さん付けで呼ばれ距離をおかれて、何をしたわけでもないのに私は教室から外れた人だった。

大沢さんは青木のような人間がいることは諦めていて、自分が怖いのは青木のような人間の言うことを無批判に信じてしまえる人間なのだと言った。

私はどちらも怖かった。ただ、沈黙には耐えた。

 

沈黙に耐えるということは大事だと思う。たとえその耐え方が「その人との関係を断つ」ことであろうと「学校に行かない」ことであろうと、悪意ある何かから自分を守って生きることは大切なのだと思う。しかし、耐えることは生きることであって、死ぬことではないことを憶えていてほしい。これは誰か今から死ぬかもしれない人に向けて言っているのもあるけれど、一番は未来の自分のためである。一度沈黙を耐えて、高校に通うことで「生きる」ということを取り戻した自分が、未来でもう一度耐えねばならなくなった自分のために言うのだ。

 

 

村上春樹といえば、内田樹の「邪悪なものの鎮め方」も読んでいる途中だった。邪悪なものの鎮め方、沈黙を耐える間に出会えたらよかったかもしれない。今からでも遅くないから読むかあ。