未来圏内

日々のくだらないことや小説

罪を犯した人間はどう生きる? 映画「友罪」感想

見てきました、「友罪」。なんでこの映画見に行ったかって聞かれると難しいんだけど、まあまず俳優に惹かれた。映画「グラスホッパー」を見てから生田斗真の映画もっと見たいな!と思ってたし、瑛太はもう……単純に顔が好き。んで、ストーリーもすごく気になった。特にあらすじの「俺が自殺したら悲しいと思える?」に惹かれたんですよ!!! いやだって気になるじゃないですか、瑛太が、瑛太演じる鈴木がどんな顔をしてこのセリフを言うのか!!

ということで、あらすじと感想、まずはネタバレなしで記録。

 

あらすじは以下の通り。

雑誌の記者をしていた益田(生田斗真)はあることをきっかけに仕事をやめ、町工場で見習いとして働き始める。益田と同時に見習いとなった鈴木(瑛太)は無口で無表情で、謎めいた人物。2人は同じ寮に入ったが、詮索を嫌う鈴木は益田や寮の先輩・清水(奥野瑛太)、内海(飯田芳)に対しても無愛想で何も語らない。ある夜、益田が「鈴木君は自殺した友達に似てる」と鈴木に打ち明けると、鈴木は「俺が自殺したら悲しいと思える?」と質問される。戸惑いつつも「悲しいに決まってるだろ」と答える益田。その夜から、2人は徐々に心を開き「友人」となっていく。

しかしある日、雑誌記者の元同僚・清美(山本美月)が益田にある事件の話をしたことで、彼は鈴木に疑問を抱くことになる。彼は17年前の事件の「少年A」なのではないか──。

 

映画ではさらに、元AV女優の美代子(夏帆)や、交通事故を起こした息子を持つ山内(佐藤浩市)などの人生が交錯していく構成になっている。この2人がまたつらい。メインの4人(益田、鈴木、美代子、山内)はみな傷を負った人物だ。あらすじでは益田の傷とは何なのかいまいちわからないかもしれないが、映画のラストで明らかになる彼の傷はとても深く、私たちの心にも刺さってくる。

この映画のテーマは「罪」と「生」であると思う。ついこの間見た映画「羊の木」(「羊の木」とは何なのか? 映画「羊の木」感想 - 未来圏内)では「罪を犯したという自覚」について語ったが、それに近い気がする。「友罪」はぼんやりとするけど、「罪を犯した人間はどう生きればいいのか?」と言うべきかもしれない。「友罪」では、みんな、罪の意識がありすぎるほどある(美代子や山内の場合は罪というよりも傷と言うべき?)。傷を負った、罪を犯した人間は生きていてもいいのか? どうやって生きていけばいいのか? 幸せになってもいいのか? じゃあ、どうやって幸せになるのか?

益田は夢に挫折して町工場で働いている。鈴木は子供のような不完全な感情のままどうにか生きている。美代子はAV女優時代の自分を抱え込みながら元彼から逃げ、山内は家族を解散した。どうにか生きようとしている。

でも、それっていいの? このまま生きていていいの? 4人は自分の傷を背負って、隠しつつ、ずっとそう思っているようである。どうにもならない傷を持ったまま生きるって、どんなにつらいか私には想像もつかない。抱えればいいのか、抱えきれない場合はどうやって生きればいいのか。

うーん、これネタバレなしで語るのきついな。どうやっても核心に触れてしまう。

まあ、なんというかすっごい映画だった。瑛太の演技がほんっとにすごい。今まで見てきた役の印象がぶっ飛ぶくらいの衝撃だった。「えっ、これ、誰?」「本当に瑛太?」というくらい。鈴木はたまに仕草に子供っぽさがあって、感情や思考も大人とは言い切れないような幼稚さがある。その不完全さ、不安定さを、こんっっなにちゃんと描き出す瑛太の演技力……すごい。そしてもちろん、その鈴木と友人になり、彼の罪を知ろうとする益田を演じる生田斗真もすっごい。

映画では登場人物が泣くシーンがよくあるのだが、泣き方というのもそれぞれの人物やシーンによって異なっていて本当にすっごい。慟哭、すすり泣き、茫然としたまま、悲しみ、優しさ。とにかくすごいので、ぜひ見てほしい。自分は2回見ましたね……。んで1回目見たときよりも2回目見た後のほうが「友罪」というタイトルがグッとくる。友罪、かあ……。

 

 

 

ということで、ネタバレなしは以上。これからは備忘録的にネタバレ100で書きます。見たくない人は自衛をどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

とにっっかくすっっっっごい。映画は益田と鈴木が試用期間で町工場に働きにくるところから始まるのだが、ここですでに2人の性格が現れている。挨拶を求められて、益田が名乗り「よろしくお願いします」と言うのに対して、鈴木は軽く頭を下げるだけで声を発さない。紹介を受けた社員が「アイツ暗いな」「元気ないな」と口々に解散する中で、2人はその場に並んで立ったまま。その2人を背中から映し、タイトル「友罪」の文字が浮かぶ。

友罪って、何? 有罪ならわかるけど「友」の罪とはなんだ? と視聴者に思わせる始まりである。

 

益田と鈴木は、過去に罪を犯している。鈴木は五芒星事件という悲惨な事件の犯人だ。彼は親しくしていた友達や下校中の女子生徒を殺した。益田は(映画のラストで明らかになるのだけれども)、虐められていた友達を見捨てた。「ねえ、益田くん。益田くんは、僕が死んだほうがいい?」と質問した学に、彼は「勝手にすれば」と答えてしまった。そして彼は、死んでしまった。

山内は、息子が起こした交通事故の罪を背負っている。家族を解散して、本人は罪を背負った気だった。美代子は自分の過ちから逃げていた。彼氏から紹介されたAVの仕事を辞めて、今もまだ男から逃げている。

正しくあろうとしても、人はどこかで罪や過ちを背負うことになる。問題は自分のそれとどう向き合うか。どう背負っていくかである。それがよく表れたシーンが、映画後半、益田と鈴木が公園で飲むシーンだ。

「お前は何をしたんだよ」と益田は以前鈴木に聞いていた。「教えてくれよ」と。それに対して、鈴木は答えるのだ。「益田くんに言わなければならないことがあった」。彼は自分の罪を告白する。自分はとんでもない過ちを犯してしまった。死にたいくらいだった。誰にも理解されなかった。同じように傷を負った人間なら分かってくれると思った。──自分と同じように、夜、悪夢に魘されている益田くんなら。

それに対して、益田は「結局お前は自分のことばかりだな」と吐き捨てる。「残された人の気持ちはどうなる? 遺族の気持ちは? あいつら死んで、もう、戻らない。抱えるしかないだろ」。

益田は、心無い一言で親友を殺してしまった。止められなかった。その思いがずっと彼を苦しめていて、親友の母親に「あなたは学の親友だった」と言われるたびに心がぐちゃぐちゃになってきたのだ。だから、彼は遺族の気持ちを真っ先に考える。遺族の悲しみの声を聞こうというブログを書いている。彼が殺してしまった親友に謝罪するように。彼の「遺族の気持ちは?」という問いかけに心が揺さぶられるのは、彼が親友を死なせてしまってからずっと考えてきたことだからなのだろう。

一方、問いかけられた鈴木は、どこか遠くを見ながら、「おかしいよね」と言った。

「とんでもない罪を犯した。自分なんか死んだ方がいいと思ってる。でも、おかしいよね。生きたいんだ。ほんとは誰よりも生きたいと思ってる」

鈴木には、罪の自覚があるのだ。自分が犯した殺人がどれほど重い罪であるのか、たぶん彼は自分の破壊衝動についても、自覚があって、抑えようという気持ちがある。そしてそれらと同じくらい、生きたいと思っている。

自分が犯した罪、背負った傷、背負わされるスティグマ。彼らは抱えきれないほど多くのものを、それでも抱えなければならない。益田が言う通り、「抱えるしかない」からだ。

 

作中で鈴木は「性の発達が未分化」だと描写されている。だけど、性だけじゃなくて、彼はどこか感情すべてが未発達なようである。彼がする疑問符があやふやな質問や、舌ったらずな話し方、笑い方、表情、すべてが幼い子供のようなのだ。そこがまた、逆説的に、彼の一言ひとことに深い感情が込められているのを感じてつらい。「俺が自殺しても益田くんは悲しんでくれる?」と聞いた時、益田が肯定するなんて彼は思っていなかったに違いない。友達じゃないから。でも益田は戸惑いながらも「悲しいよ」と答えた。「嘘だ、」と言った鈴木の声は震えていた。自分を思ってくれる人がいること。友達だと言ってくれる人がいること。理解してもらえること。鈴木は今まで、対等なそれらを経験したことがなかったんだと思う。彼はそれから、「友達」という言葉を使うようになる。友達だから。大丈夫、友達だから。そこに切実な何かを感じてしまうのって、「羊の木」の宮腰が言う「それって友達として言ってる?」に通じるよね。宮腰は「友達」にこだわっているように見えて、結局月末を突き放してしまう(最後に「友達」という言葉を使ったのは月末だったような。「友達じゃないの?」って。)。でも、鈴木は益田を友達だとラストまで思っていた。益田も鈴木を友達だと思っていた。それだけでもう、ちょっと救われた気持ちになってしまう。

 

これは余談になるけども、益田の抱えていたものを知ると、映画序盤の「鈴木のガサ入れ」のシーンがとてもつらい。益田は自分がいじめを受けるのが怖くて、学へのいじめに加担してしまった過去がある。そこを踏まえると、清水がガサ入れを宣言したときの益田の気持ちって! 鈴木の部屋に行こうとする清水。立ち止まったままでいた鈴木は、彼に「お前、わかってるよな」と言われる。

「鈴木は嫌われ者なんだよ。アイツを庇うなら、お前も同類だぞ」

彼は学くんを思い出したに違いない。どうする? あのときの選択をもう一度するのと同じことだ。加担しないと、自分がいじめられる。加担しないと、自分が肩身の狭い思いをする。どうする? どっちを選ぶ。

益田は結局鈴木の部屋を探索することに決めるのだが、彼はやはりそれを後悔して、ブログに懺悔しようとする。「学。僕はまだ最低だ。君と出会ったころから、最低だった。」

思い返すとしんどいわ、なにこのシーン。あーーーしんど。

 

最後の最後になるけど、一つだけ気になったことがある。映画のラストで益田は自分の罪と向き合うために、ずっと行くことができなかった学の自殺現場に行く。そこで彼は初めて自分の傷を見つめ直し、本当の意味で罪と向き合う。一方時を同じくして、行方不明になった鈴木も自分の殺人現場に行く。彼らは自分の罪をどうにか直視し、喘ぐように泣く。

そのあと、だ。

彼らは2人とも、弾かれたように顔を上げ、振り返る。彼らの視線の先に何があるのか、視聴者は想像するしかない。罪を見つめ直した彼らに何が見えたのか。何が現れたのか。あるいは、誰が訪れたのか。私たちは想像するしかない。

なにが、見えたんだろう。

 

 

うーん書きたいこと書いたのでここらへんでやめよ。もう5回くらい見たい。というか小説読みたい。暇になったら小説読もう……。

「君の名前で僕を呼んで」という最高に刺さる映画

最高に刺さりました!!!!!!!!!!

 

これは刺さる。刺さって抜けないからずっと傷になっている。ああ……ってさっきからずっと言っている。

 

いやまずタイトルがすごい。君の名前で僕を呼んで。劇中ではこのセリフにこう続くわけです。――「君の名前で僕を呼んで。僕の名前で君を呼ぶ」。

二人はお互いを自分の名前で呼ぶんですよ。それがなんとかわいらしくて切実で、うつくしくて儚い恋か……ああ。とりあえずはネタバレなしで感想を書きます。

 

主人公はエリオという17歳の青年。彼はイタリアに住んでいて、大学教授の父の助手であるアメリカの院生のオリヴァーと出会い、夏を一緒に過ごすことになる。はじめは自信家なオリヴァーに対して少し反発しているエリオだが、日々を過ごすうちに彼に惹かれていき、オリヴァーもまた、賢く繊細なオリヴァーに惹かれていく。だが、日々を重ねれば重ねるほど、オリヴァーがアメリカへ帰る日は近づき……。

 

というのがあらすじ。私の勝手な印象からすると、エリオはとても繊細で、いろいろなことにちょっとずつ臆病だ。そしてオリヴァーは反対に自信家で、エリオと比べると横柄に見える。エリオの視点から見るとオリヴァーの印象はあまりよくない。でも、二人は一緒に出かけたり、エリオの弾くピアノを聞いたり、夜遊びをするうちにどんどん近づいていく。その過程がたまらない。エリオの言葉がどんどん恋文のように読めてくる。オリヴァーの言葉はそれをはぐらかしているようにも見える。とかやっている間に二人は、友情とも恋ともとれるような感情で互いを想っている。

なにがすごいって、エリオ役のティモシー・シャラメの演技!!!!!!!!そして二人のうつくしさ!!!!!!!

エリオの表情やセリフ(そしてその言い方)、指先、口元、視線、すべてがすごい。あんなに複雑な表情を人間はできるのか……と感動した。笑顔はすごくかわいくて、後半、オリヴァーを見つめる目は熱っぽくて素敵だ。涙がとても綺麗で、もうなんていうか、すごいの一言に尽きる。予告にもあるけれど、オリヴァーが女の子たちと踊っているのを見つめる彼の目や表情は、もうなんだか苦しくなるほどうつくしい。息が詰まる。胸が詰まる。エンディングの彼の演技だけでもこの映画には価値がある。

そして二人のうつくしさ!!!!!!!彼らは劇中でほとんど半袖か上裸なんだけれども、まず体がすごくきれいでかっこいい。何もかもうつくしい。キスシーンとかベッドでのシーンとか、息どころか時が止まる。いやほんとうに。

とにっかく、うつくしくてめちゃくちゃグッとくる映画だった。男同士とかそういうことじゃなくて、そんなことはもう関係なくて、ただただ「初恋」なのだ。初恋の映画なのだ。もちろん男同士であることが彼らの恋のネックにはなっているのだけれども、でも、それでも、やっぱりこの映画は夏の初恋。涙が勝手に出てきて、今もまだ、この映画から立ち直れていない。最高に刺さる。

 

 

 

 

そして、ここからは私の記録なので、めちゃくちゃネタバレありで書きます。解釈とかときめきで死んだところとかいっぱい書いてあるので、読みたくない方は読まずにどうぞ。

 

 

 

 

泣いた。エンドロールでエリオが泣いているのを見て、その演技力に驚きながらも、エリオの恋の終わりに泣いてしまった。とにかく、ティモシー・シャラメの演技がすごい。wiki見たら続編作るっぽいけどどうなるんだろう。続編が出るなら必ず見に行く。

最初、オリヴァーはプライベートゾーンが狭くて誰にでも距離感のない人なんだと思った。彼はすぐにエリオに触るし、肩に触れて、背中を叩いて、ちょっと横柄にさえ見える。でも、それが彼のアプローチなんだよね、きっと。エリオはそれを最初は嫌がっていたけど、どこからだろう、何か決定的なことがあったわけじゃなくて、彼に惹かれていく。予告にもあったシーン、「君に知らないことはある?」「大事なことは知らないんだ」「大事なことって?」「分かってるだろ」。あそこはすごくどきどきした。駆け引きに見えた。私は外国映画をあまり見ないから、ああいう会話を読み解くのが苦手で、会話の真意がわからない。あのシーンも、私にはちょっと難しかった。でも、駆け引きに見えたのだ。ねえ、僕の気持ちどこまで知ってるの? 僕はどこまであなたに告白していいの? どうやって告白すればいいの? あなたは? あなたには、僕がどう見えてるの? エリオはとても繊細で言葉を選ぶ人だ。臆病で、核心に触れられない。それに気づいていつつ、オリヴァーも言わない。言わないから少しすれ違う。エリオは彼がセックス「してくれた」と思っている。オリヴァーはエリオに対して「初心な子を苦しめた」と思っている。それで、あれ(アレ)をしたアプリコットを食べようとする事件があって、エリオはすっごく抵抗するのだ。だって、あなたは僕の恋心をわかっててこんなことをするんでしょう、あなたは僕のこと好きじゃないのに。みたいな。いや違ったらごめん少なくとも私にはそう見えたの。

あのダビデの星のネックレスもめちゃくちゃ印象的でしたね。鼻血事件のあとから彼はあのネックレスをするようになる。オリヴァーもしているから。もっと言うと、鼻血事件のときに「そばにいてほしい」と言うのもぐっときた。ときめきがあふれた。

エリオはとてもうつくしい。まだ17歳で、こどもで、でもすごく大人びていて、とにかくうつくしい。儚い。

あと映画見ててすっごくハエ!!!ハエがきになる!!!!!!馬鹿だからハエが出てくるシーン忘れちゃったけどあれってなんの暗喩なの。もう一回見直したい。

そういえば音楽も最高だった。エリオの弾くピアノ、バックのピアノ曲、挿入歌、なんか胸にくるよね。綺麗な曲だった。

お父さんの言葉もすごくよかった。というかあそこのせいで号泣。そうだ、感情を殺してはいけない。人間は心を殺してしまっては、すべてが終わりだ。つらいことがあっても悲しいことがあっても心を殺すのはダメ。だってそれは喜びまで消してしまうことになる。エリオの家族は寛容で、とてもやさしい。お父さんはとても聡明だ。エリオの幸運はオリヴァーと出会ったことと、オリヴァーとの出会いを否定しなかった家族なのかもしれない。

そしてなんといっても「君の名前で僕を呼んで」だ。君の名前で僕を呼んで。僕の名前で君を呼ぶ。エリオがオリヴァーに向かって「エリオ」と呼ぶ。オリヴァーはエリオを見つめて「オリヴァー」と呼ぶ。これだけの行為にすごく恋の切実さを感じませんか。感じる(自問自答)。相手を願っている。祈っていると言ってもいいかもしれない。相手が自分のものであればいい。髪の毛から足の爪まですべて残らず、うつくしい声も、その視線も、果ては名前まで。それは彼らの恋の合言葉で、愛の告白でもあるんだろう。二人が名前を呼びあうのは、「恋」なのだ。恋じゃないとこんなことってできない。それで、ラストにつながる。

オリヴァーがアメリカへ帰って、季節は冬になる。あの町では「誰もが夏の終わりを待っていて」、「冬は感謝祭などをする」と言っていた。二人は夏の終わりなんて待っていなかったけれども。いや、それは置いておいて、とにかく冬、冬だ。エリオの家族はハヌカの祭りの準備をしている。そこに電話がかかってくる。オリヴァーだ。エリオは冗談交じりに「結婚の知らせかな」と言う。これには、恐る恐るという気持ちもあったんだろうなあ。まさか、そんなわけ、って思っていたんだろう。でもオリヴァーはそれを肯定する。呆然とするエリオと、その間に電話を替わる両親。両親はオリヴァーの結婚の知らせを聞いて祝福するけれど、電話を終えたあと、顔を見合わせる。息子の恋が終わってしまったことを知ったから。一方エリオはなんとか立て直して、おめでとうと言う。エリオが電話に向かって「エリオ?」と声をかけるシーン、せつない。そこから「エリオ、エリオエリオエリオ……」と彼はオリヴァーを呼び続ける。だって、それがオリヴァーとの恋の合言葉だから。沈黙のあと、オリヴァーはエリオに「オリヴァー」と言葉を返す。愛の告白にも似た名前の呼びあい。でも、彼は言うのだ。「何一つ忘れない」。これがまた!!!!罪深い!!!!!なんだよ忘れないって。「忘れない」というのは、「忘れる」ことが前提にあるときに出る言葉だ。そして忘れるっていうのは、「過去になったもの」のことにしか使わない。と、私は思う。だから、たぶん、オリヴァーは無理やり終わらせようとしたんだろうな。まだ心は恋をしているけれども、自分は結婚をするから。もう「過去」だという区切りっていうか、うまく言えないけど、そう感じた。これ、あまりに傷を負って英語を聞いてなかったけど、英語だと何と言ったんだろう。rememberみたいな単語だったら、ちょっと前向きだけど、never forgetみたいな文だったら、「終わり」が前提になっている気がする。このセリフ、罪深い。

エリオは電話を切ったあと、暖炉(?)の火の前で静かに泣き始める。そしてエンドロールが流れる。この間のエリオの表情!!!!どんどん目に涙が溜まっていって、こらえきれなくて涙が落ちるシーン。すごい。んでしかも、エンドロールが止まって、最後のシーンが、エリオの後ろから彼に声がかかるシーン。母親だったか誰が声かけたか忘れたけど、とにかく、誰かが彼のことを呼ぶのだ。「エリオ?」と。

この最後のセリフって、すごい。オリヴァーの前で、エリオは「オリヴァー」だった。恋。電話でも、二人は互いを自分の名前で呼ぶ。でも、最後の最後で、エリオは彼自身の名前を呼ばれてしまう。それって、なんか、恋の終わりを感じる。恋が終わってしまって、エリオはエリオに戻った。もしかしたらもう、彼は「オリヴァー」にはなれないかもしれないし、その名前を呼ぶことも聞くこともないかもしれないと思ったら、もう、無理。泣く。書いてて泣けてきた。やめる。終わりにする。

 

そういうわけで、とにかく刺さった映画、「君の名前で僕を呼んで」。Call Me By Your Name. もう一回見たい。

ドラマ「アンナチュラル」と「Lemon」を今更語る

いや〜みましたよ、アンナチュラル!(今更)

最高に良かった!!!!! カルテット並みに面白かったですね…… 時期が悪かったのでずっと録画してリアルタイムで観てなかったけどほんとリアルタイムで観たかった、これは…。

 

と、いうことで、全話見たのでアンナチュラルと主題歌「Lemon」について語ります。

 

米津玄師さんはもともと動画投稿サイトでボーカロイド曲を製作していた方。自分はその頃から結構好きだったけど、この主題歌「Lemon」を聞いたときはほんっっとに感動した。この世のすべての悲しみと苦しみとうつくしさが詰まったみたいな歌詞で、ドラマを見てなくても感動する。MVも、詳細なストーリーがあるわけじゃないけど映像の細かいところから踊る女性がもうこの世にはいないであろうこと、そして米津さんは彼女を祈っているであろうことが分かる。2人が履く同じハイヒール、「今でもあなたはわたしの光」というフレーズ、ベンチに置かれた花。胸が詰まる。

「言えずに隠してた昏い過去もあなたがいなきゃ永遠に昏いまま」って歌詞は、自分の昏い過去を話し得る相手はあなたしかいないってことで、だから「あなたがいなきゃ永遠に昏いまま」なんだろう。「あなた」は「わたし」の心に深く消えない悲しみと傷を刻み込んだのだろうし、そのことからもう随分経つにもかかわらず「わたし」は「未だにあなたのことを夢に見る」。ひとは所詮他人で、だれかが何を考えているか何をしているかなんて完璧には知り得ない。でも、だからこそというべきか、ひとは誰かを愛することができて、同じ人間にはなれないから大事にできるんだろうなあ。

 

そして本題は「アンナチュラル」である。ネタバレめっちゃするので見てないひとは何のことだかわからないと思うけどとりあえず書きます

 

 

解剖医の2人、三澄ミコトと中堂系は過去に「死」に接近したことがある2人だ。ミコトは一家無理心中という"身勝手な殺人"に巻き込まれ、幼いころ家族を亡くしている。1人生き残ったミコトは「生かされた」のではなく「生き残ってしまった」。中堂系は愛する恋人の死を、彼女が運びこまれた解剖の場で知り、それからずっと彼女を殺した犯人を探している。クソクソ言いながら彼は彼女の頬に残された赤い金魚という唯一の手がかりをもとに、ほかに赤い金魚を持つご遺体を探し、そして、最後には恋人を殺した犯人を殺すつもりでいる。

ひとは死ぬ。いつか死ぬけれど、だからといってだれかの愛する人が積極的に死に向かっていいわけがないし、死後に非難されたり、ないがしろにされたりしていいわけがない。「不条理な死」が許されていいわけがない。

もちろん中堂系の復讐とも呼ぶべき計画は法的に許されることじゃないのは当たり前だ。つーか法的にもそうだし、復讐が何も利益を生まないことなんて彼も知っているんじゃないだろうか。第5話で鈴木さんが犯人を刺すのを止めなかった中堂系は、きっと頭の中で恋人を殺した顔も知らない犯人を刺した。そしてそれは胸糞悪かったはず。それでも彼は最終話までずっと犯人に復讐をするために生きていた。法や理性じゃ止められない感情があるのは確かだと思う。

「死」というのはアンナチュラルの大きなテーマだ。けどアンナチュラルって本当にすごくて1話ごとに現代社会の闇や問題を取り扱ってくる。事件現場や被害者遺族、加害者親族に押しかけるマス"ゴミ"のことも全話通して描かれているし、ネット、心中、過労、いじめ、テレビで取り扱ってもなんとなくコメンテーターに納得できない気がする問題に対して、視聴者が思っていることをバッサリとミコトが言ってくれる。かっこいい。中堂系の「許されるように生きろ」は痺れたなあ……。

というように、とにかく魅力が満載。すごい。

 

最後にアンナチュラル全体と中堂系を踏まえてLemonについてもう一度。

中堂系の恋人、夕希子の描いた絵本「茶色い小鳥」のストーリーでは、主人公と見られる茶色い小鳥は死んだあと花になる。中堂は理解できないようなそぶりを見せるが、夕希子は彼に言う。「理屈じゃないの」。

Lemonでは、亡くなったと見られる女性のいたベンチに、ラストで花が置かれている。

そこまで意識したのか分からないし、きっとLemonのMVの花は彼女自身ではなく献花なのだけれど、アンナチュラルを見てからMVを見て、中堂系と夕希子のことを思って号泣してしまった……。中堂系の心の中で、夕希子の姿があった場所には綺麗な花が咲いているんだろうなと思えるから切ない。

これもまた偶然なんだろうけど、アンナチュラル5話で鈴木さんが犯人を刺したあと、中堂は雪の中、片手で顔を隠して佇んでいる。その姿はLemonのMVの最初で踊る女性の姿とも重なる。

何が言いたいかってとにかくLemonが中堂系に合いすぎる。

「今でもあなたはわたしの光」というフレーズは、長い時を感じさせる最高の言葉だ。MVで米津さんの演じる男が女性を想っていた(?)ように、中堂にとって夕希子は光だ。そして、MVで米津さんと向かい合った女性が眩しそうに手の甲で目を隠すのは、彼女にとって向かい合う彼が光だったからだと思う。そしてそれは、夕希子にとって中堂が光だったと言っているように見えて、切なくも綺麗。

 

 

言いたいことがまとまらなかったけどとにかく!アンナチュラルとLemonの組み合わせが最高でした!!!いいドラマでしたマジで!!窪田正孝のことほとんど書かなかったけど窪田正孝めっっっっっちゃかっこよかったです死んだ。石原さとみもすっごくかわいかったしかっこよかったです。市川実日子も羊の木とまた違って明るくて最高だった。中堂系を演じた井浦新は言わずもがな。ひとの死を扱ったドラマで、こんなにグッときたドラマはない……ってほどでした。いいドラマをありがとうTBS……。

 

 

 

乙女ゲームがやりたい話

私が今までにやった乙女ゲームと言えば、

・Starry☆Sky (in春夏秋冬)

・月華繚乱ROMANCE

・死神と少女

アルカナ・ファミリア

AMNESIA (無印/LATER/CROWD)

・ライブラリークロスインフィニット

くらいなもんですが、ただただ今は乙女ゲームがやりたい。できればオトメイトやRejetじゃなくてスタスカみたいな優しさに溢れた世界が見たい。もっと欲を言えば優しい幼馴染がいるといいな。

私がやったゲームが偏ってるだけかもしれないけど、初めてやった乙女ゲームスタスカだったので月華繚乱ROMANCEやAMNESIAをやったときのBAD ENDは本当につらかった。まさか乙女ゲームで人死ぬと思わないじゃん? AMNESIAに至ってはシンのルートとか初めっからミステリーサスペンスだからね。あれシンのルートだけ乙女ゲームじゃなくて二時間もののドラマだと思う。シンのルートはそもそも人間関係といい状況といいさ……ほら……ね? ここまで来ると日本語通じないケントが一番まともな気がする。まあ全員日本語通じないけどな、AMNESIAは。シンは(生意気すぎて)同じ言語喋ってるとは思えないし、イッキは(人間を超越した能力があって)言葉が通じるとは思えないし、ケントは(単純に)コミュニケーション能力が著しく低いし、トーマは……あれは病んでるからまともな人間と会話はできない。ウキョウはどう考えても電波さん(ひどい)。全員ダメだ。

その点スタスカは全員日本語が通じている。ハーフがいるにも関わらずハーフも日本語を喋れるし、ぬーぬー言ってる人もいるけど意思疎通ができる。素晴らしい世界である。あと人が死なない。素晴らしい。

とかなんとか言っておきながら、私が全乙女ゲームの中で一番押しているキャラクターはトーマだ。ほんとトーマは乙女ゲームキャラの中で一番かっこいいしかわいいし愛おしい。超好き。同担の人と仲良くなりたい(私の周りにトーマ推しはいない)。

トーマの何がいいって、あの臆病さだ。あんなことをやっておいて「自分は愛される資格がない」とか言ってヒロインから逃れようとしやがる。許されるより許されない方が心持ちが良いから「俺を許しちゃいけない」なんて言う。自ら手錠もつけるし、大型犬用ケージにも入る。臆病な男、最高。

ハードがPSPとDSシリーズくらいしか持ってないので、PSvita乙女ゲームを出されると本当に困る。お前のことだぞAMNESIA world。お前のために私は今更PSvitaを買わなければならないんだぞ、という気持ちである。

 

話は戻るが、私はとにかく優しい乙女ゲームがやりたい。できれば幼馴染がいると良いが、この際キャラクターはどうでもいい。いや嘘だ。どうでもいいは言い過ぎた。攻略対象の中に1人でも「人当たりのいい青年」がいればいい。全員俺様とか全員ドSとかはあまり惹かれない。お前のことだぞディアラヴァ。とにかく上っ面だけでも常識的な好青年がいれば私は幸せだ。だからいい乙女ゲーム教えてください(切実)

「羊の木」とは何なのか? 映画「羊の木」感想

映画「羊の木」を見てきた。

なんかもううまく感想言えないけどすっげーーーーー錦戸亮錦戸亮の顔が好きな私としてはほんと錦戸亮。すごい。そして松田龍平が好きな私としては本当に松田龍平(意味不明)。

以下ネタバレなし感想。

 

ここで突然のあらすじ。

市役所職員の月末(錦戸亮)はある日突然、6人の男女の受け入れという仕事を与えられる。それぞれを迎え、車で住居まで送ったり移住の手伝いをしていると、彼は一人一人の違和感に気づく。6人は全員、何か、変わった人たちなのだ。そして月末は知ってしまう。6人は全員「元殺人犯」であり、その受け入れは「町の過疎化」と「受刑者の仮釈放」という2つの問題をクリアするための国家プロジェクトであるということを。

こうして6人の元殺人犯が来た町、魚深。この6人というのがまたすごく怪しい。理髪店で仕事を始めた福元(水澤紳吾)は挙動不審だし、清掃業務をしている栗本(市川実日子)は、無口で無表情。月末の父がいる介護施設で働く太田(優香)はなんかえろい。釣り船屋をする杉山(北村一輝)は何だか危ない雰囲気が出ているし、凶悪そうな表情である(失礼)。クリーニング店に受け入れられた大野(田中泯)は顔に傷があって、見た目からして怖い。宮腰(松田龍平)は初っ端から罪を告白してくる。すごい。

この6人を受け入れた魚深は、月末やその同級生・文(木村文乃)を巻き込んで、何かが変化していく--。

 

この話でキーになっているのはもちろん「羊の木」である。羊の木とは何ものか? 映画の公式サイトにもあるのだが、羊の木を持っているのは清掃員の栗本だ。彼女は仕事中に羊の木が描かれた缶の蓋を拾う。そして家に飾る。

5匹の羊が成る木の絵だ。そして、木には2枚の枯葉もついている。

絵を見ると、ちょっと不気味。そもそも羊が成る木っていうのがなんだか怖い。アンバランスだし、植物から動物が成るっていうのは……すごく、変。

この羊の木の絵は、映画の中で何度か出てくる。しかし、誰も「これはこういう絵だ」とは言わないし、そもそも蓋を拾った栗本以外はこの絵と関わりがない。しかし、この絵に関して映画の冒頭で東タタール旅行記の引用がある。

その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる

羊にして植物

その血 蜜のように甘く

その肉 魚のように柔らかく

狼のみ それを貪る

                                        「東タタール旅行記」より

 タタールって韃靼……?だからモンゴル?あたり??? あいにく私はこのような記述に弱いので意味がさっぱりわからない。さぱらん。

羊はたいてい食われる側の生き物だ。第一次囲い込みでトマス=モアが「羊が人を食う」と言ったのは比喩であって本当に羊が人をむしゃむしゃしてるわけではないし、狼少年でも羊は狼に食われてしまう弱いもの。

そんな羊が、木に成る。木や植物はよく、新しい命として扱われるものだ。木に羊。羊の木。新しい命と弱いもの。「羊の木」は何を意味しているのか。多分見た人によって考えが違うんだろうなあと思う。私は私なりに「羊の木」に意味をつけたけど、みんな一緒とは限らないよね。映画も本もそういうもんだし。

ウィキで調べたらバロメッツ?とか出てきて尚更謎が深まった。「羊の木」がバロメッツの伝承に由来するならわっかんねー。

 

というわけで、見た人の中にその人なりの「羊の木」が生まれるという結論で、ブログタイトルを回収。

全体的に映画としてすっごくよかった。分かりやすい結論があるよりも想像の余地がある終わりの方が映画としていい気がする。し、6人の元殺人犯がいる町はすごくドキドキした。いつ事件が起こるかわからない、誰かが何かを企んでいるかもしれない、と思いながら錦戸亮を見る。最後20分とか本当に心臓がばくばくしてきて、めちゃくちゃ引き込まれてた。俳優の錦戸亮だけじゃなくてベースを弾く錦戸亮も、ギターを弾く錦戸亮も見られるのでファンの人はきっと楽しいんだろうな……。

締まらないけどネタバレのない感想はここまで。

以下頭を使って考えたことをネタバレ度合い100で書く。自分のために。

 

 

 

 

 

 

 

「のろろ様」とは何なのか?

 

魚深には守り神的な何かがいる。「のろろ様」である。「のろろ様」のことは見てはいけないらしい。月末は「子供のころ、見るなって言われてませんでした?」と言っていたし、私はそれを聞いて三浦しをんの白蛇島を思い出して背筋凍った。私は善か悪か判別のつかない、得体の知れない世を超越したモノ、というのが苦手だ。なぜって怖いから。「のろろ様」はそういうものだと思う。月末の話す伝説では、「のろろ様」はもともと化け物のようなもので、町の人に倒されて守り神になったということになっている。そして、「のろろ様」に捧げるために昔は岬から2人の生贄を落としていた、とも言っていた。2人のうち1人は必ず浮かんできて生き残るが、1人は沈んでしまうらしい。沈んだ1人は、死体も上がらないのだと言う。怖。

この「のろろ様」の伝説を聞く前に、宮腰は子供達が「のろろのろろ……」と言って遊んでいるところを目撃する。「のろろって何?」と宮腰が聞くと、子供たちは口々に「化け物!」「神様!」「ちがうよ化け物だよ」「ちがうよ神様だよ」と騒ぐ。宮腰は興味深そうに話を聞き、騒ぐ子供を「のろろー!!」と言って追いかけはじめる。子供はきゃあきゃあ言って遊ぶ。ここだけ見ればほんと宮腰さん普通の人だな。人殺したとは思えねーわ。

神様と言われているものが実際は善悪どっちの面も持っている、というのはよくある話だ。鎮めるために祀った神様も歴史上にいっぱいいる。鎮めるために祀るって、祀られて嬉しいもんなんかな。わからんけど。

「のろろ様」は化け物か神様か。1人は沈んで1人は生き残る。奇妙な祭り。怖い。

宮腰はよく「それって友達として言ってる?」と言った。私はこの台詞がすごく好きで、この言葉が宮腰のすべてなんだろうなと思った。宮腰に友達がいたかどうかは分からないけど、設定から考えるに彼は何も思わずに人を殺してきて、特に心を動かされることもなかったんだろう。「友達」という言葉に何か子供みたいな可愛さ、切実さを感じてしまうのは私だけ?

結果、宮腰や杉山はああなってしまったわけだけど、ここで働いたのは「のろろ様」の力なんじゃないかなと思ってしまう。祭りでも「のろろ様」の怒り(?)を受けたのはこの2人だった。「のろろ様」が完全なる善だとは思わないけど、守り神でもあるらしいから、そうなのかなあと……。私の勝手な想像だけど。

宮腰と杉山になかったのは、罪の自覚だと思う。ほかの4人にはあった。太田は元殺人犯の自分が恋愛をすることに対して悩んでいた。人を殺したら恋愛をしてはいけないのか? ダメだと思っても深く好きになってしまうときは? 前に進みたいときは? 大野は若かった自分が馬鹿であったと気付いていた。だから組を抜けて魚深に移住した。栗本は、酒に酔った福元を見て「怖い」と言った。一升瓶でDVの夫を殴って殺した「自分が怖い」と。福元は刑務所帰りの自分に居場所がないことを分かっていた。そしてもう1人、福元が働く理髪店の店主も。

罪の自覚がある4人(+1人)は魚深で新しい道を歩き始めている。新しい人生。栗本は、家の庭に5つのお墓を作った。でも、死ぬことは「さよならじゃない」。「いつか木になる」と栗本は言っている。これこそが、「羊の木」のすべてだと思う。

5つのお墓は死ではなく再生の象徴だ。そこから芽が出て、いつか木になる。木になれば、そこから羊が生まれるのかもしれない。羊は狼に食われる側だ。だけど、「食う側」だった元殺人犯が、殺人犯としての自分を捨てて魚深の住民として「食われる側」に戻れるのなら、それはマイナスではなくプラスの出来事である。プラスどころか、光にも思える。栗本の作ったお墓からは芽が出て、大野は笑うことができる。福元には居場所があるし、太田は恋を大切にできる。それは紛れもなく、元殺人犯たちの再生だ。多分、きっと、そうやって生きる月末や文や元殺人犯たちを守り神としての「のろろ様」が見守ってくれるんだろう。

 

 

と、いい話感を出して感想を終わる。

つーか月末の「友達じゃないの?」で泣きかけた。月末は人を信じようという気持ちが見えて良い。「信じる」「疑う」というテーマは「怒り」もそうだったけど、こんなにグッとくる映画になるんだなあ。もちろん映画がすどいのは監督や俳優のおかげなんだけど、テーマも深くて良いよね。

家と家具は早めに決めとけ

2月だよ。はやいよ。1月、2月、3月は「行く」「逃げる」「去る」とは言うけれども、それにしたって1月が早すぎやしないだろうか。課題やってねえよ。一人暮らしするときの家具も決まってねえよ。昨年の精算をしないまま、また2月になってしまった。

高校3年生はもう受験シーズンで(というか去年の秋くらいからずっとそうだ)、いよいよ大学の試験日が迫って来ている。私立は既に終わっているところも多々。友達が全員第一志望に受かるといいなあと思うけど、現実はそんなに甘くないだろう。世の中の大学を受けた高校3年生は、誰かは受かるし誰かは落ちる。当たり前だけど超厳しい現実だ……。

私は、と言えばのんびり暮らしている。小説書きたいなあ、でも何も思いつかないなあなどと言ってクラスメイトから反感を買っている、に違いない。言っちゃいけないと思うんだけど思ったことって言葉に出ちゃうよね。口から出た言葉はLINEの新機能みたいに送信取り消しできないし、あーはやく神さま、人間にもその機能つけてくれねーかな。ねーな。人間に取り消し機能つけたら喧嘩は起きないし大臣も辞任しない。でもそれは世の理に反するからできない。人間が不老不死にならないように。

 

何を言っているのか分からなくなってきた。こういうのが徒然なるままにってことですかね?違う? そうですか。何とかかんとか言っている間にもう7時半だよ……。2月ってだけで恐ろしいのに、2月ももう4日になっていて、それに4日はもう7時間半も過ぎている。恐ろしい限りである。今日もしなければならないことがいっぱいだ。テイルズしたいよテイルズ……。テイルズと言えば、私がクリアしたことのあるテイルズはTOX、TOX2、TOZだけなんですけど、大学生になったら持ってるハードでできるテイルズ全部やりたいなって思ったんですよ。イノセンスとアビスはDSで持ってるんだけど、テイルズって出した後すぐ「エフ」だの「アール」だのって出してくるじゃないですか。あれって結局無印のとどっちが良いんですかね。無印の方がいいとか言われたらハードまで買わなきゃいけなくなるかな。

最近は忘れかけていたTOXを思い出そうと思ってやり始めたんだけど、憶えている内容が全然違って人間の記憶ってほんと信用ならねーなと思った。でもアルヴィンが好きなのは昔も今も変わらなかった。6年くらい前(もっと前だっけ?)からアルヴィンが好きなのは変わらないのね……。私ダメな大人好きだもんね……。TOX2はルドガーが好きなんだけど、どうやっても「クルスニクの一族」であると言うだけで幸せになれそうにないので心が痛い。TOZはデゼルが好きなんだけど……(沈黙) テイルズは早くパーティーメンバーを全員身も心も平穏にしてほしい。ロゼの気持ち考えたことある!? でもテイルズのパーティーいじめ(違う)がなくなったらそれはそれで内容がないよう…ってなっちゃうかもしれませんしね。仕方ないような気もする。それに死んだり裏切ったりしたメンバーとはアプリゲームで会えるもんね。レイズは最高。だけど早くスパーダください。ルカとスパーダを一緒に戦闘メンバーに入れたいんだよ!分かれよ!

デゼルとロゼが参加したのはこの世が終わるんじゃないかってくらい嬉しかった。だけどロゼの魔鏡出ないので無事死亡。ダイヤ1600個砕いたんですけど……!?80連したんですけど……!?デゼル魔鏡2回出るってどういうことなの……!!

 

そんなこんなでもう8時。いまだベッドの中。そろそろ起きなければ。あと16時間でやることを終えなければ……。

 

BUMP OF CHICKEN「記念撮影」の何がいいか今更語らせてくれ

高校3年生の今、この曲に対して思うことがあって、多分今じゃないとこの気持ちは忘れちゃうっつーか将来この気持ちが「過去のもの」になっちゃうんだなあと思ったのでとりあえず書く。

「記念撮影」の何が良いって全部だ。タイトルで示したことはこの一言で終了なのだけれども、歌詞にすごくきゅんとしたのでその思いをつらつらと述べる予定。私なりの解釈で申し訳ないけれど。

 

この曲は、すごく大雑把に言って前向きな曲だ。もっと詳しく言えば、人生のきらきらした時代が「僕」の背中を押してくれる歌だと思う。

歌詞には2人以上の人物が出てくる。「僕」と「君」だ。この「君」が個人ただ1人を指しているのか、それとももっと多くの「君」がいるのかは人それぞれだと思うし、分からない。僕らは(おそらく)学生時代、一本のコーラを挟んで座ったり曖昧なメロディを一緒になぞったりして過ごしていた。このきらきらした時代(安易な言い方で言えば青春だが)というのが「魔法」だ。くだらないことで笑って、はしゃいで、理由もなく突っ走ったり泣いたり、魔法っていうのはそういうものだ。だけど、そういう「魔法」はいつか終わってしまう。そのことに、きっと学生みんなが気づいている。

そして、私たちは写真を撮る。きらきらした時間に自分たちが今いることを表し、そしてそれを未来の自分に伝えるために。将来への漠然とした不安とか、未来の自分へ伝えたいこととか、色々あるけれどそれを全部ひっくるめて、私たちは未来の自分=魔法の外にいる自分のために写真を撮る。届け、と思っている。

大人になっていくにつれて、迷子になったような気がするのはきっと誰しもなんだろう。学生時代は(もちろん私は今も学生だけれど)、課題とか勉強とかやるべきことがたくさんあって、小学校が終わったら中学校、中学校が終わったら高校、高校が終わったら……と大体の道筋が見えていたし将来が想像しやすかった。でも大人になるにつれて、自分のやるべきことをするだとか、自分のやりたいことを選ぶだとか、そういう自分の選択が人生を左右するようになっていく。大人になったら、誰も行く先を決めてくれない。自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかも分からない。まさに迷子。不安。漠然とした想像で生きるしかない。

「僕」は、そんな大人なのかもしれない。学生時代のあのとき想像していた「未来」が「今」になって、でも成長なんかなくていつも同じところでつまづいたり傷ついたりしている。学生時代、一緒に走ったり声をあげて笑ったりした友達とはもう一緒ではない。1人で歩いてきた毎日が積み重なって、後ろを振り向くと「魔法」のころが遠くに見える。写真では、魔法の中の僕らが立ち止まった僕を見ている。

そして僕は思い出す。僕らはあのとき未来に向けて笑っていたことを。「迷子のままでも大丈夫」って伝えたかったことを。

 

私の背中を押すのはいつも昔の私だ。大丈夫だよっていつも言ってもらっている。中学1年のころ撮った運動会のクラス写真でクラスメイトが笑っているのを見ると、あのころはなんでもできるような気がしていたと思い出す。私だってなんでもできると思う。学校に行っていなかったころ「どこかに行きたい」と思っていた私は、「どこへでもいける」と歌うBUMP OF CHICKENと、昔の私によって生かされている。

 

あと3ヶ月で卒業だ。「どこへでもいける」と笑ってこの3ヶ月を終わりたいなあ。