未来圏内

日々のくだらないことや小説

謝り癖が治らない

 

謝り癖が治らない。

 

そもそも自己肯定感が限りなく低い。むしろ自己否定感がカンストしている。

恋人に対して色んなことで謝ってしまうから、たびたび恋人に「なんで謝るの?」「何のために謝ってるの?」「謝ってほしいなんて思ってない」と言われる。

たくさん謝るから、「謝ればいいと思っている」と思われている。

「何かにつけて謝ればそれで丸くおさまると思ってるから謝るんでしょ」。

「別に悪いと思ってないでしょ」。

 

違う。

自分は本当に悪いと思っているし、申し訳ないことをしたと思っているから謝っている。許されたいから謝っている。嫌われたくないから謝っている。それでもその気持ちが多すぎて、大きすぎて、どうやら相手には通じていないらしい。

 

多分、自己肯定感が低いのが理由なんだと思う。

自信がないからちょっとしたことで嫌われたような気持ちになる。嫌われたくないし許されたいから謝る。謝りすぎてうざがられる。嫌われていると思う。悪循環。

 

もう少しだけでも自己肯定感が持てたらなと思う。

でも「自己肯定感が低いから」と言ったら恋人に「そればっかり理由にするのはよくない」というようなことを言われた。その通りだと思うけど、その言葉でまた自己肯定感が下がった。悪循環。

 

「謝り癖 治す方法」

検索したらたいてい2つの解決法が出てくる。

 

・「すみません」を「ありがとう」に変えよう!

 やっている。うまくいかない。

 

・自己肯定感を高く持とう!

 それができたら苦労はしていない。

 

思えば私の自己肯定感は中学のときに消滅したのだった。

ブログに書いたことがあるけれど(いつか許せるようになる日まで - 未来圏内)、私は中学で転校を経験してスクールカーストの下方にいた。それまでは自分で言うのも恥ずかしいことだが、わりと勉強ができてクラスの委員みたいな立ち位置にいたので、転校先でひそひそと悪口を言われたり運動部の女子に笑われたりするのは初めてだった。

毎日、活動せずに部室に存在するだけになっている部活に行き、部活仲間が楽しくしゃべっているのを聞きながら窓の外を眺めて小説を書いていた。小説を書くことで自分の心が成り立っていた。自分が書くものは、自分を慰めることはあっても傷つけることはなかった。

自室が2階にあったので、夜になると音を立てないように窓を開けて、窓枠に座って夜空を眺めていた。死ねたら楽かもしれないと思っていたが、死ぬ勇気が全くなかった。痛いのも苦しいのも、親を悲しませるのも嫌だった。ずっと泣いていた。BUMPを聞きながら。

 

あのころの経験はすべて自分にとっては必要なことだったのだとは思っている。

でも自己肯定感はそれから戻らなかった。

高校で小説を書いてちょっとした賞をとっても、大学に受かっても、嬉しかったけどそれが自分を肯定することには繋がらなかった。育たないままの自己肯定感。どんどん強くなる自分が悪いんだという気持ち。

 

自己肯定感の話になってしまったけれど、今回は謝り癖の話をしているんだった。

どうやったら治るんでしょうか。そもそも治ることってあるんですかね。

 

思うに、許されようと思わなければ、謝るのをやめることは簡単だ。

許されたいから謝るのであって、そもそも許されないと思えば謝ることもない。

じゃあ許されようと思わないためにはどうするのって、それは2択だ。

・相手を「嫌われてもいい相手」だと思う

・自分が許されることなんてないと思う

不健康な2択である。

 

でもどうしようもないんだもん。健康的なこころを育んでこなかったし、育み方がわからない。行きつく先はどんどん不健康な方向だ。

こころの健康はどうあれ、たぶんこの2つのどっちかを実践すれば謝らずにすむんだろうな。どうしても嫌われたくない相手には、「許されるような自分じゃないだろ」って自分に言うしかない。許されようとは思ってはいけない。大きな罪を背負ったような顔をしてればいい。それがどれだけ不健康でもね。

セリフの説明っぽさ - 「鬼滅の刃無限列車編」

9月25日(土)にテレビでやっていた「鬼滅の刃無限列車編」を見た。アニメはNETFLIXで見ていたし、友達に誘われて映画館にも見に行っていたけど、テレビでやるならもう一回見ようかな、という感じでまた見た。

最初に書いておくと、私はそこまで鬼滅の刃のファンじゃない(だからと言ってアンチでもないと思う。アニメも映画も見たし、煉獄さんの生き様はかっこよかった)。ファンになる前に流行りすぎてしまったという要素もなくはないけれど、なーんか気になるところがあるからだ。

「セリフの説明っぽさ」である。

 

本題に入る前にめっちゃ前置きをしておく。私は説明がたくさんある物語より説明のないエヴァみたいな物語が好きだ。実写映画でも、物語が分かりやすいよりは考察の余地が残されていたり、表情や仕草から感情を感じ取れるものが好きだ。セリフも長いよりさっぱりしていたほうが好みだ。情報が多いと分かりやすいけど、情報を詰め込まれてしまった気になる。「暗殺教室」の作者、松井優征先生がジャンプの漫画学校で話していたと思うのだが、彼はセリフを最低限に削るらしい。読者にストレスがないように、文章が長くなりすぎないように、言葉を変えたり必要のない言葉を削ったりして短くするのだと(すげー)。私は、情報が多すぎず少なすぎず、そういうのが好きなのだ。

そういうわけで、鬼滅の刃を見ているときに、どーーーーしてもセリフが気になってしまった。

鬼滅の刃では、キャラがとにかく喋る!!!!! これは映画だけじゃなくてアニメを見ているときにも気になっていた。セリフ長くね!?!?!?

多分、それが作品の良さでもあるんだろう。鬼滅の刃がその話のダークさ描写のグロさにも関わらず子どもたちに人気だったのは、説明による分かりやすさがあったのだと思う。実際、基本的に登場人物がどんな過去を背負っていてそのとき何を思っていてどういう風に現在に繋がっているのかということはたいてい本人によって語られている(と私は感じた)。炭治郎はとっても素直でまっすぐな志を持った少年だし、彼の仲間である善逸や伊之助についても「裏がある」人間ではないと言える。思ったことは口に出すし、考え方も非常にすっきりしている。セリフが長くて解説っぽいのも、炭治郎やキャラのまっすぐさであったり真面目さを描写してるのだと言われればまあ納得もできる。

でも私にはそれが物足りなく感じる!! いや逆に物足りすぎてるのか!?!?

 

映画でこの説明口調が気になるなと特に思ったシーンはこちら。

・魘夢が死ぬ直前で「アイツが強すぎた」「アイツがいなければ」と全員に対しての恨みつらみを独白するシーン

→一人ひとりへのコメントが長い上に全員分への恨みがあるので死ぬ直前に貴重な体力を使って自分の敗因を解説するマンになっている。逆にもう面白くなってしまっている気がするけど……。みんなそれぞれの強さがあっていいよねって感じはあるのだけれど、この敗因解説のせいですっげー魘夢がザコい。まあ後に上弦出てくるしね。それに比べたらザコくても仕方ないか……(?)。

・煉獄さんと猗窩座の戦いを見ている炭治郎と伊之助

→炭治郎は「傷のせいもあるだろうがヒノカミ神楽を使うとこうなる……!」、伊之助は「助太刀に入ったら足手まといにしかならないのが分かるから動けねえ!」と言って煉獄への助太刀ができない。このセリフだけ抜き出すとそうでもないけど特に伊之助のセリフが長い。短くしようと思えば「速すぎる!俺が行っても足手まといにしかならねえ!」で事足りるのだが、「隙がねえ入れねえ動きの速さについていけねえ(中略)分かるから動けねえ!」なので心情というより説明のためのセリフだと感じてしまう。

 

異次元を描く上で、解説役が必要になってしまうのは仕方のないことだと思う。ギャグマンガだと、あるキャラが解説役にふりきっちゃってもそれがネタになるし、メタ発言も許容される(「逃げ上手の若君」での犬追物回でも解説役が解説役として紹介されていたし、「斉木楠雄のψ難」ではいつまで経っても学年が上がらない現象についての話があった)。だが、バトルものでは解説役が解説役として存在すると、なんか不思議な感じになってしまう。鬼滅の刃で「なんか説明っぽい」と私が感じてしまったのは、そういう「解説役」になってしまっているシーンがあるからなのかなと思う(それが悪いっていうわけではない。話は分かりやすいし、展開もスムーズだし、読者の解釈と乖離してしまうことも少ないだろうし)。

絵や映像や展開から既に読み取ってしまっていることをキャラにもう一度説明されるのが苦手なのかもしれない。いや、単純に説明っぽさのあるセリフ回しが気になるだけ? 独白に心情っぽさがないのが気になるのかな? 小説に慣れすぎていて、場面転換がないのに各キャラでの一人称独白が入るのが気になる? ダークな雰囲気、重い展開、グロい描写という大人向け設定と「セリフによる説明」の分かりやすさがちぐはぐに感じてしまうのもあるかも。いや、もうわからん。わかりません。

 

そういうわけで、私はものすごくハマる!という感じではなかった。でも流行る理由もすごくわかる。何度も言うけどわかりやすいし。

(まあ所詮漫画を数シリーズ集めてるくらいのゆるオタクの戯言なんですがね……)

就職活動とかゲームとかの話

BUSTAFELLOWS公式から「チャプター2以降のネタバレやめてね!」っていうお達しが出てたことに気づいたのでネタバレ感想を非公開にしました。だって私もみんなにやってほしいんだもん。誰も見ることのない鍵ブログにでも移動しようかな~。

 

就職活動をしている。正直働きたくない。いや、自分がやりたい仕事ができるところ以外で働きたくない、というのが正しいかもしれない。御社は私がそうやって考えていることなどお見通しかのように私を落とす。鬱になるぞ!

そういうわけで未だどこからも内定をもらえていない。内定をもらえていないと、面接をしているときに「ああ、どうせここも落ちるんだろうな」って気がしてしまう。御社は私がそうやって考えていることなどお見通しかのように……。

 

出版社で仕事がしたかった。本が好きだから。本に救われたから。本が私の人生を作ってきたようなものだから。どれだけ愛を語っても私にポテンシャルがなければ採用はされない。ないよポテンシャルなんか、と思う。だって勉強して本読んでゲームして高校大学に入って何の不自由もなく(いや、中学はしんどかったが)暮らしてきた怠惰な人間だもの。ポテンシャル? ポテンシャルって何ですかね?

可能性を潰しながら生きてきたのだ。運動部に入らなかった。理系に入らなかったし理転もしなかった。専門学校に入らなかった。小説を書くことをやめた(本当は書きたいけど、書けなくなってしまった)。色んなことを諦めて色んな可能性を選ばずに生きてきた。高校のときの生物の先生が言っていたことは正解だ。「君たちの可能性はもう無限じゃないよ」。そうだと思う。さまざまなことを選んで、さまざまなことを捨ててきたから。選んだなかに何の可能性が残っているかが分からない。ポテンシャルってあるんだろうか。

行きたかった出版社に面接で落ちた。すごく緊張してたし何言ってるか分からなかったしもともとコミュニケーションも苦手だし、まだ耐えられた。落ちたのもしょうがないなと思った。

行きたかった出版社に作文で落ちた。文章を書くことだけが取り柄だと思ってたけど、文章で落ちた。耐えられなくてすごく泣いた。

 

努力すれば夢は叶うらしい。今まであまり努力してこなかったから努力の仕方が分からない。自分がいまやっているのは努力じゃないんだろうか。ご飯を作って食べて運動して生きてアルバイトをしてお金を稼ぎながら就職活動をしている。卒論は何も進んでないけど。私にはこれだけのことがもう努力だと思う。大変だ。もう疲れている。

入れるところに入ったほうがいいのかなとも思う。このままだと勤める先のないまま卒業してしまいそうだ。やりたいことではなくできることをやったほうがいいんだろうか。わっかんねーよ。

 

考えてもしんどいのでゲームをしている。乙女ゲームとかマリオとか。汀紫鶴の感情が理解できすぎて泣いた。小説をかつて書いていた人間として、汀紫鶴と笹乞の感情は痛すぎた。同じ場所で学んだ同期が書いた本が稀モノになった。自分が書いた本はどれだけ魂を込めて書いた気になってもそうはならない。同じ場所で学んだ同期が人気作家だ。自分が書いた本は師匠の模倣だと言われ人気が出ない。どちらの気持ちも分かる。私も書いていたから。どちらの気持ちも、分かりすぎてしまう。

しんどいのでマリオサンシャインをやる。初っ端から冤罪で監房に入れられ罪を償わされるマリオ。島民からの視線は痛いし話は聞いてもらえないしいいことをしても感謝されない。ピーチは早く帰りたいだのほざいている。うるせえ今落書き消してんだよ! 鬱ゲーなの?

 

とにかく就職活動がしんどくてしんどくてたまらない。内定余ってる人、ください。

「『罪と罰』を読まない」を読まない

 

本屋でうろうろすることほど時間の経過がバグる暇つぶしはない。

最近本を読んでいない。読みたいけれど読む時間がない(というのは事実ではなく、読む時間はあるのだが他にやるべきことが脳裏をかすめて「読んでる場合かよ」と思い読まない。そのあとは結局やるべきこともやらないでダラダラしている)。本を読みたいという欲、読むべき積読本が存在するという事実はあるのに、なぜか読んでいない。どうしてなんでしょう。

実際に本を買うかどうか、買った本を読むかどうかは別として、本を読みたいという欲のままに本屋に入った。呪術廻戦の漫画も探していた(どこに行ってもない)。最近お気に入りの作家さんは新刊を出しただろうか。今話題の本はなんだろうか。気になる表紙の本はあるだろうか(表紙買いは危険なので買わないが)。そうしてうろうろして見つけてしまった。

 

罪と罰』を読まない  岸本佐知子 三浦しをん 吉田篤弘 吉田浩美

 

私は三浦しをん氏のファンである。エッセイのときのあの自由な書きぶりも好きだし、小説作品のどことなく漂う耽美な雰囲気だったり(「月魚」だ)恋の苦しさとうつくしさだったり(「きみはポラリス」だ)かと思えば個性あふれるキャラクターが何かやらかして大騒ぎになったりならなかったり(「まほろ駅前」シリーズだ)するところが、もうすべて好きなのだ。とにかく好きだ。三浦しをん氏の名前を見て、手に取った。

裏表紙には、こんなことが書いていた。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことのない4人が試みた、前代未聞の「読まずに読む」読書会! 前半では小説の断片から内容をあれこれ推理し、後半は感想と推しキャラを語り合う。ラスコ(-リニコフ)、スベ(スヴィドリガイロフ)、カテリーナ……あふれるドスト愛。「読む」愉しさが詰まった一冊。 解説マンガ・矢部太郎 

 

 こ、これはオモコロの積読王決定戦……!?

いえ、何でもありません。

 

読んだことのない本について4人で喋って推しキャラまで語り合う本だった。楽しそうな企画である。本屋さんの文庫棚の前で私はひっそりと笑った。私も友人とこの会を行いたいくらいである。

前置きを読むと、この本が出版されるに至ったきっかけは、とある宴席で『罪と罰』を読んだことがあるかという話題が出たことであるようだ。本に携わる仕事をしているにも関わらず、その場にいた四人の答えは「読んだことがない」というものだった。「主人公がラスコーなんとかで」「おばあちゃんを殺してしまう話?」程度の情報しか出ない。で、他の人にも聞いてみることにした。一番多かった答えは「昔読んだ」で、しかし、「よく覚えてないけど、主人公がラスコーなんとかでおばあちゃんを殺してしまうんだよ」程度の情報しかやはり出てこない。読んだ人も読んでない人も大差ないのなら、読まずに読書会ができるのでは――。これが「『罪と罰』を読まない」の経緯であるらしい。

馬鹿馬鹿しい話である。面白すぎる。最高。私はこの本を買った。読むかどうかは別として。

 

実を言うと、私も『罪と罰』を読んだことがない。文庫版は持っているが、本棚に入っているだけでその本を開いたことは一度としてなかった。その隣にある「ツァラトゥストラはこう言った」は大学のレポートのために何度開いたことか分からないが(内容が頭に入っているわけではない)、『罪と罰』は蔵書として存在するだけで、私にとってはもう一種の置物であった。私は思ったのだ。これを機に『罪と罰』を読んだことにできるのではないか?

しかし、私にはひとつの心配事があった。それは、『罪と罰』を読まないままで「『罪と罰』を読まない」を楽しく読むことができるのだろうか、という問題である。

この本は『罪と罰』を読んだことがない4人が『罪と罰』のストーリーを推理しつつ語り合う内容である。であれば、『罪と罰』を読んだ経験があるほうが、この4人の推理についてあれこれツッコミを入れながら楽しく読めるのではないだろうか。「そうじゃないんだ」「そんなストーリーではないんだ」とか、「その推理合ってる!」「すげー!」などと思いながら読むことができたほうが楽しいのではないか。

いや、もちろん『罪と罰』を未読でもこの本は楽しめるだろう。そもそもこの本は「読む」ことだけが読書の楽しみではないということを教えてくれる本なのであろうから。しかし。

 

…………。

 

私は、「『罪と罰』を読まない」をしばらくのあいだ積読本にしておくことに決めた。まずは『罪と罰』を読みたくなったのである。『罪と罰』を読むまで「『罪と罰』を読まない」は読まない。そう決めたのだ。

買った本を本棚に仕舞い、代わりに『罪と罰』上下巻を取り出した。取り出した時点であまりの分厚さに「うわ、長」と言ってしまった。ええい、長くても読むのだ! 三浦しをん氏らの本が(そして一緒に買ったオードリー若林の「社会人大学人見知り学部卒業見込」も)待っている!

私はぱかりと適当なページを開いた。そしてページいっぱいに連なる文字に少し酔った。……なんだこの本。なんだこの本!

改行が恐ろしいほどない!!!

 

…………。

 

私が本当に『罪と罰』を読むまで「『罪と罰』を読まない」を読まないのかは謎である。もしかしたら『罪と罰』を未読のまま読むことになるかもしれない。あまりの難解さに『罪と罰』を読むことをあきらめる未来の私がうっすらと見えた。あきらめて別の本を読み始める私も見えた。でも仕方ないのだ。だって私の本棚には、まだ多くの読むべき積読本が積まれているのだ――。

新型ウイルス、自粛、学費、理解

もうなんなのってくらい長い間街中に行っていない。自分の行動範囲は最寄りのスーパー、それよりは少し遠い安いスーパー、お金をおろすために行くATM、そして一日のほぼすべての時間を過ごす家の中。

本当は春になったら本屋に行きたかった。伊坂幸太郎の新刊が出るから。服屋を見て、バイトに嫌々行って、大学が始まったら研究室の友人とマジで統計はクソだとか言いながらレポートを書きたかった。

今のところ出来たことは何もない。

 

新型ウイルスだと聞いて思い出したのは法医学ミステリーを扱った人気ドラマだった。初の感染者、感染者とその家族への差別、国中で起こるパニック。ドラマで見たものより現状酷い気がする。

何が正しいんだか誰が正しいんだか分からないのに、テレビは視聴者の不安を煽ることばかりする。有名人が感染したと分かるや否や騒ぎ立て、亡くなれば遺骨が家族に届けられるまで追いかける。外出する人を指差し非難するくせに、自分たちは嘘か本当かも分からない情報を追いかけて外に出る。世の中の人も、ひどい。医療現場が、政府が、何をやっているのかを知りもしないで批判するだけ。そりゃ、何かを非難したい気持ちは分からなくもない。この状況で何もかも誰かのせいにしたいのかもしれない。検査を増やして陽性者が病院にあふれかえれば医療現場はどうなるのか。外出を禁止すれば社会がどうなるのか。どうすればこのコロナ禍が終わるのか。

みんな分からないしみんな知らない。もちろん自分も医療現場が実際どうなのか政府が実際どうなのか分からない。国がやってることは今後にとっていいことなのかもしれないし悪いことなのかもしれない。未来にならないとわからない。

 

誰かのせいにしたい人たちばかりで、世の中はもうめちゃくちゃだと思う。

 

ほとんどの大学がオンライン授業になって、図書館や研究室などには立ち入ることができなくなった。正直図書館が使えないのは痛い。レポートを書くための資料、学術書、勉強場所、図書館に行くのには様々な目的がある。本を読むのには時間とお金がいる。経済的に厳しい学生には図書館は素晴らしいところなのである。

大学へ、学費減額を求める学生もいる。「大学機関を使用できないこと、通常の対面での授業からオンライン授業に変更になったことで生じる授業の質の低下など」を理由に、「大学に学費の減額・返還を求める」らしい。

結局は誰かのせいにしたいのかもしれない。

大学は悪くない。先生だって対面授業がやりたいと思う。実際そう言っている先生は何人もいる。大学は悪くない。図書館を開放して感染者が増加すればオンライン授業にする意味がない。オンライン授業だって、そういうシステムを作ってくれるだけありがたい。図書館が使えないことも、オンライン授業になってしまったことも、大学の責任じゃない。誰の責任でもない。

 

かなしい。おそらく色んな人が頑張って暮らしているのに、それを理解できない人がいる。

共感はできなくてもいい。その人の立場にならないとわからないこともある。実際その人と同じ立場になっても、その人とは違う選択をすることだってある。必ずしも共感できることばかりではない。

でも理解してほしい。頑張ってる人がいて、頑張ってる企業があって、頑張ってる機関がある。理解できないから、傷つけてしまうのだ。どうかみんなが、色々な立場の人を理解して、この状況を乗り切ってほしい。誰かの大事な人を傷つけないでほしい。

「あざやかな悪に染まれ」BUSTAFELLOWS ネタバレ無感想

NINTENDO Switchを買ったということで、リングフィットアドベンチャーやらFIT boxingやら脳トレやらぷよぷよやらをダウンロードしていたのですが、ある日急に「乙女ゲームがやりたい!」という夢女子の業が身体のうちで騒ぎ始めたので乙女ゲームをすることにしました。その昔、PSP乙女ゲームをしていた自分がPSvitaに媒体を移行しようかどうか悩んでいたことを思い出します。今からPSvitaを買うのは遅くないか?どうしようか?と考えていたところにオトメイトが媒体をSwitchに移行しますという驚きの宣言をしまして、今までどうにかPSvitaを買うことなく生きながらえてきたわけです。

Switch買ったら乙女ゲームやろーと軽く考えていたのに、実際にSwitchを買ったらやるソフトはフィットネス系。ゲームに頼らず自力で痩せろよと自分のことながら思う。大体乙女ゲーム買ってから運動してないよね? 画面の中で恋をする前に現実で恋ができるくらいの見た目になれよ。

まあそんなことはさておいて、逃れられぬ夢女子の本能に従って乙女ゲームをやりました。BUSTAFELLOWS。主人公・テウタ(名前変更可)は自らが「再放送」と呼ぶ不思議な能力を持っていて、時間を遡り、「現在」を変えることができます。知り合いの誰かが死んでしまう、なんていう不本意な出来事も彼女の「再放送」で時間を遡り、その人が死なないように色んな細工をすれば、彼女が「現在」に戻ってきたときにはその人は生きている(かもしれない)。彼女の再放送の欠点は、昔すぎる過去には戻れないこと(彼女が戻れる過去は数時間ほどなのです)と、彼女は時間を遡った先で彼女自身にはなれないということ。時間を遡っても、誰になるかは分からず、子供になるかもしれないし身動きがとれない留置所にいる犯罪者になるかもしれないので、必ずしも「現在」を変えられるような変化を起こせるとは限らないのです。

さて、ここに、彼が弁護に立った裁判は完全無罪と噂の弁護士リンボ・フィッツジェラルドという男がいます。彼はスリで捕まったという男に弁護をしてほしいと頼まれて警察署を訪ねました。しかし、男に会うと、不思議なことを言われます。この面会がなければリンボは死んでいたと言うのです。男は女性口調で続けます。

今日は私にとっては再放送なの。私はあなたが死ぬのをこの目で見た。

 

あらすじはこんな感じ。主人公・テウタは再放送の力を使って様々な出来事を回避していきます。フルサークルと呼ばれるSNS、彼女を取り巻く人々の過去、秘密組織、そしてテウタの兄の死。無駄な登場人物も無駄なエピソードもなく伏線を回収していくストーリーは、乙女ゲームというよりもうサスペンス系のノベルゲームです。途中から恋愛要素よりサスペンスストーリーの方に興味が湧いてきました(それはそれでどうなの)。ストーリーに踏み込んじゃうとネタバレ必至なので、とりあえず伏せておきますが、もうとにかくストーリー性がいいです!そしてキャラクターの人間性もいい!つーかそもそもテーマがいい!「あざやかな悪に染まれ」というキャッチコピーのこのゲーム、そもそも悪とは何なのか?正義とは何なのか?誰のための正義と悪なのか?と色々なことを考えさせられます。テウタは記者、ジャーナリストとして活動していることもあり、言葉が上手く、考え方もしっかりしています。登場人物の過去、罪に触れたときにテウタが発する言葉といったら……!あと単純にかわいい!

 

とまあ恋愛要素よりストーリー性について触れてしまいましたが、だからと言って恋愛要素が微妙だったわけではないです。乙女ゲームとしても最高でした。何がいいってリンボとシュウが最高なんだよな……。

福山潤の声が好き+クール系orお兄ちゃん系が好きな私は、モズ(cv.福山潤)を見た瞬間「このゲーム買おう」と思ったわけなのですが、モズ最推しとは言え他のキャラクターもめっちゃいい。攻略制限がなかったので攻略順はモズとスケアクロウ以外気分で決めました。モズは最後にしようと決めていて、最初は誰を攻略するか考えずに選択肢を選んでいった結果スケアクロウになりました。最終的な攻略順はスケアクロウ→リンボ→シュウ→ヘルベチカ→モズ(そして全員を攻略すると真相√が解放されます!)。まずはネタバレなし・攻略順で感想を書いていきたいと思います。

 

 

スケアクロウ

なんかもうかわいいです。いじられキャラでお調子者って感じ、自分の好みではないけど友達になりたいタイプ。感情ダダ漏れ男なのでこっちが見守ってしまう。言わずもがな登場人物全員闇深ゲームなので彼にもまあ軽くはない過去があるわけですが、だからと言ってスケアクロウ√初っ端から攻めすぎでしょ!びっくりしたよ!? あ、個別ストーリー入ったなと思った瞬間「え!?あ!?スケアクロウ……!?」と困惑しました。他の√やってたら驚きも少なかったのだろうけど、スケアクロウ√をやり始めたときは登場人物全員闇深ゲームだとは思ってなかったのでスケアクロウの闇に触れてびっくりだったんだよ……。彼との恋愛は中学生や高校生を見ているみたいで超かわいいです。ニヤケちゃう。

 

◆リンボ

個別√初っ端びっくりマン2。スチルの顔がエロい。スマート。イケメン。以上。

登場人物全員闇深ゲームのメイン攻略キャラとも言える立ち位置なだけあって、闇深いです。リンボは守られるより守るタイプだけど守ってあげたくなる(何を言っているんだ?)。どんなときも余裕に振る舞う悪徳弁護士がテウタに関わると焦ったり懇願したりするのがもう……ええな……。そのくせテウタの前ではどんなときも余裕そうな顔をしているのだからカッコいい。好きな女の前ではカッコよくありたいタイプ? とにかくスチルの顔がエロくって、スチルが出てくるたびに「あー……」ってなってしまいます。やることなすことスマートすぎてもうカッコいいとしか言えない。特に個別√の終盤はかっこよすぎて落とされること間違いなし。

 

◆シュウ

イケメン。ギャップ萌え。「お嬢ちゃん」呼びが至高。シュウ√に出てくるヤンという人物が好き。大人の色気。攻略したあとシュウのことが好きになりすぎて死にそうになる。

キラー・キラー、すなわち殺し屋を殺す殺し屋をしていて、現在進行形でいろいろヤバイことに関わっている。気怠げに見えて彼には芯があって、自分の美学に従って生きているんでしょう。

公式サイトのボイス3「ゆっくりでいいから、焦んないで、他に好きになれる奴探しな」というセリフがもう彼のすべてを表している気がします(?)このセリフ言えるのすごいよな? テウタが自分を好いてくれていると分かっていて、そして自分を諦めるには時間がかかるであろうことを分かっていて、こんなことを言えてしまう……。なんて悪い男なの……。危ない仕事をしている自分を遠ざけるために、好きな女に向かってこんなこと言っちゃう?シュウしか許されないよこんなの……。

 

◆ヘルベチカ

いけ好かない。あざとい。テウタへの扱いがひどい。タラシ。以上。

 

……というのが第一印象ですが、ヘルベチカはヘルベチカなりに自分の心を守って生きているからこういう感じなんだろうなと思います。ヘルベチカのストーリーに触れてしまいそうなので詳しく言えないけど。女の子に点数つけたりちょっと意味深なこと言ったりするのでちょっと腹立つところもあるんですが、まあテウタにだけそういう扱いなので、彼にとってもテウタは特別なのかな。他の女の子には優しいみたいだし。好きな女の子をからかっちゃうってどこの中学生?

登場人物全員闇深ゲームの中でも特にキツい(と私が思う)過去を持っているヘルベチカ。バッドエンドがどうしようもなく切ない。今までたくさん選択をしてきて、「ヘルベチカ」があるのだけれど、じゃあ今までしてきた選択の「選ばなかった方」を選んでいたら……と思ってしまう。ヘルベチカがヘルベチカとして生きていてよかったな……。でもやっぱりいけ好かねー! 

 

◆モズ

かわいい。料理作ったり何だりお母さんなところがある。ズレてる。かわいい。天然っつーか何つーか……。登場シーンからもう面白い。ご遺体に話しかけながら検死を行なっているし、そのことについて噂している部下は冷たくあしらう。嘘や隠し事がない分ストレートに言葉をぶつけてくるが、その言葉もめちゃくちゃ堅いし客観的なので伝わりにくいことも多々。個別√初っ端の裁判のシーンはめちゃくちゃ面白い。モズだな……となる。

彼もまた切ない過去を持っていて、モズ√では彼の過去についてちゃんと知ることができます。ラストはまたミステリーに戻る感じがあり、モズ√は展開がすごい。モズ推しとしてはもうちょい糖度高めが良かったけど、モズの性格で糖度高めを目指すのも難しそうなのでこのストーリーで満足かな。

モズ√で正直泣きました。切なくってつらくって、なんかもう……つらいです。とにかく。もう何も言えないです……。

 

 

という感じ。

真相√では、本編で解決されなかった謎の真相を知ることができます。ここからは本当にミステリーノベルゲーム。映画を見てるような驚きの展開に全部持ってかれます。今までの登場人物を全部巻き込んで明らかにされる真相は、悲しく切なく……何と言っていいかわからないほど、魅力的です。「あざやかな悪に染まれ」。悪とは?正義とは? 誰にとっての? 誰のための? 全員がそれぞれの正義を持ち生きているということを思い知らされます。真相√のラストは切なくて心が痛むので、元気な時に見るのがおすすめです……。私は今のところ2日は引きずってます……。

 

また今度ネタバレありで感想を書きたいなあと思います。だって真相√について話し足りないし。ルカやアダムやカルメンさんへの愛も語りたいし。

久々に乙女ゲームをしたらもっとやりたくなったので、おすすめ乙女ゲーム教えてください……。

いつか許せるようになる日まで

 

 成人式だった。あのとんでもなく嫌いだった中学とたまらなく好きだった高校の5年間(私は中学で転校を経験している)を過ごした土地に帰ってきて、死んでしまった方が楽だと思っていた中学の同窓会に出た。そのときの気持ちを全部吐き出そうと思って、この記事を書く。読んでも面白いものじゃないし、だいぶ自分に酔ってるかもしれないけど!

 

中学-登校拒否と「徳川勝利」

 私は暗い中学時代を過ごした。中2のときに生まれ育った県を離れ、隣県に引っ越した。それに伴って転校したものの、新しいクラスには馴染めず、数日は動物園のパンダのようにじろじろ見られ、学校に行くことがつらかった。いわゆるスクールカーストの底辺にいた私は、運動部の女子が学校行事をキャッキャキャッキャと楽しんでいるのを横目に学校の窓から飛び降りて自殺する想像をしていた(もちろん死ぬ勇気はなかった)。聞こえる大きさで悪口を言われても気づいていないフリをして、合唱コンクールの練習でクラスの女子に「音痴だから歌わないでくれる?」と言われた友人をそれとなく慰め、授業を忘れて教室に来ない先生を呼びに行ったときには背中に暴言を受けて職員室で泣いた。中学のことで憶えているのは大抵こんなことばかりで、あとは不登校になったときに親に厳しく言われたこととか、親が私の寝たあとに、私だけでも転校前の県に戻したほうがいいんじゃないかと話し合っていたこととか、そんなことも憶えている。とにかく親にそんな話をさせてしまう自分が情けなかった。中学のクラスメイトはほとんど嫌いだった。

 

 2,3ヶ月くらい学校に行かなかったが、冬休み明けだっただろうか、急に「学校に行かなければ」と思い立って学校に行くことにした。きっかけは辻村深月の「オーダーメイド殺人クラブ」という小説で、スクールカースト上位の"イケてる女子"小林アンがスクールカースト下位の"昆虫系男子"徳川勝利に「自分を殺してくれ」と頼み、殺人を2人で計画するというストーリーだった。アンは女の子同士のごたごたに巻き込まれ、友人たちに無視され傷つき、そんな友人たちも、そんなことに巻き込まれて傷ついている自分も嫌だった。彼女は殺人事件の記事を新聞から切り抜いて集め、自分が死ぬ妄想をしている。そんな中で話すようになった徳川勝利に同じ匂いを感じ、見下していた”昆虫系男子”に自分を殺してほしいと頼むのだ。

 私は多分、徳川勝利に殺されたかったのだと思う。私も中学校で、私の徳川勝利に出逢いたかった。だから唐突に「学校に行かなければ」と思ったんだろう。

 私は徳川勝利には出逢えなかった。出逢えないまま卒業して、それでも絶対に受からないと思っていた第一志望の高校に入学できた。

 

高校-夏と魔法

 高校は私の青春だ。変な学校行事と変な生徒に溢れた高校で、とにかく日常が楽しかった。友達は私を受け入れてくれたし、同じ中学出身でも同じ高校に来た人たちは皆面白かった。

 高校時代を思い出すと、いつも夏の記憶が先にある。多分、応援団の姿が一番の高校の記憶だからだ。真夏の日差しの下、隣に立つ人の熱を感じ、汗ばんだ手を握り、声を張り上げて野球部を応援した。青い空にひらめく校旗が私の瞼に焼き付いている。応援は泣きそうなくらい切実だった。

 中学時代を受け入れ始めたのは、高校生になってからだ。中学のころは嫌いで仕方なかった、憎んでいたと言っても過言ではない「中学校」という経験を、私はやっと「必要なことだった」と思えるようになった。転校して馴染めなくて不登校にまでなったあの経験が私の人生には必要で、多分過去に戻って他の道を選べるとしても、結局はあの中学に転校し、今の高校に通っていたのではないかと思う。それが私にとって必要だったから。

 そう思えるようになったのは、高校の友人たちのおかげだろう。高校時代は魔法のような三年間だった。勉強や進路のことで迷い、友人とケンカして傷つき、もちろん嫌なことだってあったけれども、この時期のことを思い出すと楽しかったことが先に思い出される。運動会や文化祭、友人たちと馬鹿な話で盛り上がり、毎日のようにLINEでくだらない議論をし合った。文芸部にも入れたことで、小説を書く楽しみも覚えた。卒業とともにとける魔法だとは分かっていても、その魔法の中で私はずっと生きていた。

 

現在-大人と子ども

 あの経験を受け入れたとは言え、結局のところやっぱり私は中学時代私を傷つけた彼女らが嫌いで憎くて仕方なかった。いつか彼女たちのことを許せるようになる日が来るとしたら、それはいつなのだろう? 何をしたら彼女たちを許せるのだろう? 彼女たちはあのまま大人になるのだろうか? そう考えているうちに私は大学生になり、二十歳になった。

 二十歳は区切りだった。今まで子供だった私たちが大人にならなければならない歳だった。成人式があり、その後には中学の同窓会があった。

 逃げちゃダメだ。いや、逃げたくない。嫌いで逃げた中学に、今は嫌いだから向き合いたい。あのとき教室の窓から飛び降りずに生きてきた私を褒めてあげたい。「こんなやつら」の中でそれでも生きてきてくれてありがとうとちゃんと昔の私に伝えたい。中学時代の私とはもう別れたことを、私は私にきっちり見せたかった。

 だから、同窓会に出ることにした。

 

 同窓会には同じ中学出身の高校の友人がいたし、中学時代の数少ない友人も来た。中学時代、仲が良かったクラスメイトは「中学に向き合いに来た」と言っていて、彼女も私と同じように同窓会に来たのだと言う。会場で馬鹿みたいに騒いでビールを煽る人。金やグレーに染めた髪の男。銀色のピアス。華やかなパーティードレス。お酒をこぼして悲鳴をあげる女。司会進行の話を聞かないクラスメイト。まだ大人になりきれていない子どもの集まり。

 それでも驚いたことが少しあって、それはたとえばほとんど話したことがなかった(と思う)他クラスの女の子が私のことを憶えていてくれたり、卒業以降会うことのなかった部活仲間が話しかけてきてくれたりしたことだ。自分は中学時代のことをあまり憶えていなくて、嫌だったことや傷ついたことばかり憶えている。でも経験したことが全部本当にそうだったわけではなくて、たしかに私にもちゃんと憶えてくれている人間はいたのだった。

 

 二次会には行くつもりがなかった。同窓会自体でもう、スクールカースト上位の女子たちが「今どうやって過ごしているか」は分かったから、私としてはもう全部に向き合った気でいた。二次会に行くことになったのは、私と同じように「中学に向き合いに来た」友人がどうしても二次会に来て欲しいと頼んだからだ。

 二次会はクラス会になった。同窓会会場から居酒屋に移動して、ほとんど話したことのないクラスメイトに囲まれる。開始早々、場はしっちゃかめっちゃかだった。私と友人2人以外の女性は当時のカースト上位層で、男性もまたほとんどがそうだった。その上位層の中の女の子1人がお酒のグラスをこぼし、隣にいた女の子の服にかけた。こぼした方は大騒ぎして机を叩き、隣の個室との境になっている戸にぶつかり、店員を呼ぶチャイムを何回も鳴らし、「ごめん!ほんとにごめん!」と叫びまくった。中学時代から何も変わっていない騒がしさだ。お酒をかけられた子は「マジ最悪!」と怒り、男性陣はそんな女の子たちのことをそっと見守る。私と友人2人は苦笑いだ。何も変わっていない。

 

 しかし、場が落ち着いてきて、それぞれが中学時代の思い出や近況を話し始めると、私は驚かされることになる。グラスを倒して大騒ぎをしていた子は、酔っていると分かる言動で、こんなことを言っていた。

「私、中学のとき、暴れすぎたと思って。すごく反省してるの。だって、本音を言うと、私のこと嫌いだったでしょ!? ね!? 」

 「私たち、20になって、20年前は、お母さんから生まれた。なんか、もう、前は子供だったから分かんなかったけど、でも、感謝しないといけないってわかった。大人の感情が私にも芽生えたの!」

 私はハッとした。

「最近気づいたことがあって。学生には、2種類いるの。1つは、遊んでばっかりの学生。もう1つは、真面目に勉強して、バイトしてお金稼いで、がんばってる学生。私はそのことに気づかなくて、前は学生なんてみんな馬鹿だと思ってた。でもそうじゃなかった」

 

 何も変わっていない、はずがなかった。5年という月日は私のことも、私たちが嫌いだった彼女たちのことも大人にした。

 中学のころ、私は彼女たちより少し早く大人になっていたのだろう。だから私たちと彼女たちの中学時代は合わなかった。私は彼女たちのことを心のどこかで「幼稚な人たち」と認識していた。感情のままに振る舞い、相手のことも考えず傷つけ(いや、もしかしたら考えた上で傷つけてもいいと思ったのかもしれない)、私はその彼女らの幼稚さに傷つけられた。

 でも、私たちが嫌いだった人たちもちゃんと大人になる。月日を経るとはそういうことだ。彼女たちはもう反省もするしいいこと悪いことだって分かる。今でも私たちは彼女たちより少しだけ大人の思考回路をしている(と思う)が、それでも彼女たちが成長しないわけじゃない。

 むしろ、同窓会で彼女たちの幼稚さを見て「いつまでもこんなやつら」だと思おうとした私のほうが幼稚じゃないか。

  私はずっと彼女たちのことが怖くて怖くてたまらなかった。嫌いで仕方なかった。中学卒業後は二度と会うもんかと思っていた。けれど、同窓会やクラス会に出て、私はちゃんと彼女たちを見ることができた。私が大嫌いだった女の子は、おそらく中学のとき私をうざったい陰気で真面目な女としか思っていなかっただろうに、クラス会で話しかけてくれた。あまり話したことのない男の子は、会話から外れないように私に話を振ってくれた。みんな、私が怖かった人たちは、その場を上手く回していた。そして、そういうことに私も気づくことができたのだ。

 私はやっと、彼女たちのことを「嫌い」という感情なしに受け入れた。

 

いつか許せるようになる日まで

 いつか彼女たちのことを許せるようになる日がくるとしたら、それはどんな日なのだろう、どんな大きな出来事が起こるのだろうといつも思っていた。中学在学中は彼女たちのことも中学校のことも憎くて仕方がなくて、高校在学中は彼女たちがどうしても嫌いだった。いつか許せるようになる日まで、私の中で彼女たちの存在が燻っているのだろうと思っていた。

 クラス会が終わったあと記念の写真を撮っているときに、私が言った「本当にこの県は寒い」という一言を、隣にいた男の子が拾ってくれた。中学時代は全く話したことがなく、私に嫌なことをしてくるわけでもなかったが優しくもされなかったため、良いイメージも悪いイメージもない男の子だった。

「俺今○○県にいるんだけど、やっぱりこの県は特別寒いよね。ながせさんの住んでいる△△市は本当に暖かいと思う、俺も△△市に住みたいし、ながせさんの大学に憧れてた」

 無口なイメージを持っていたため、彼が私に明るく話しかけてきたことに相当驚いた。驚きながらも彼の大学を訊き、よく知っている大学だったため、その話で盛り上がった。彼はその話のあと、私に「よかった」と言った。

「俺、中学のときから本当は少し話してみたかった。卒業後もちょっと心配してたんだ、ながせさん大丈夫かなって。でも高校で楽しんでるって話を噂で聞いて、今日会って、大学でも楽しい生活をしているみたいだったから、よかった」

 何と言えばいいか分からなくって、ただ「ありがとう」と言った。心配してくれてありがとう。何より、私が楽しい生活をしていることを「よかった」と言ってくれてありがとう、と思った。

 彼は三次会には行かない私と友人2人を心配して「気を付けて帰ってね」「××さん、(酔っていて)危なそうだから」「本当に気を付けて」としきりに言った。私は「2人をちゃんと送り届けるよ」と言って数時間前まで憎んでいた人たちと別れた。

 

 案外、なんでもないことだった。どんなことがあれば許せるのだろうと考えていたわりには、なんでもないことのように私はクラスメイトの中に入り、お酒を飲んで笑い、近況を話して帰っていた。でも、それが正解だった。私はちゃんと、中学のクラスメイトと向き合い、許し、そして昔の私に「ありがとう」と言えた。私は確かに、大丈夫だった。

 一生許せない、と思っていた私は高校のときに死んで、いつか許せるようになる日まで、と思っている私が高校時代にいた。今は、いつか許せるようになる日まで、と思っている私はもういなくて、いつかまた会うことがあったら、と思う私がいる。それでいい。私はそれでいい。でも、今までの私、今までありがとう。

 

おしまい。